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チャートイットでみんなの意見をシェアしよう!

2010年5月20日に、組織のなかの学びに関する公開研究会「Learning bar」で、宮原さんと開発している手書きカード集計システム「チャートイット(Chart It!)」を使っていただきました。

Learning bar @ Todai 2010
ケーススタディをとおして新たな人材開発戦略を「構想」する!
フリービット株式会社 酒井穣さんをお招きして
2010年5月20日(木曜日)午後6時30分 – 9時30分
東京大学 情報学環 福武ホール B2F  福武ラーニングシアター
http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/04/520_learning_bar.html

チャートイットは、ある企業内のビジネスワークショップのために開発したのが、きっかけです。

会議やパネルディスカッションで、参加者の意見や質問を出してもらうことは大切ですが、活発な質疑応答をひきだすことは容易ではありません。「的外れな質問をしてしまうかもしれない」、「みんなの前で発言するほどでも」と逡巡しているうちに場がシーンとなったりします。それでも参加者ひとりひとりの頭のなかには、意外な着想や感想が秘められていることがあります。

チャートイットは、そうした参加者の頭のなかにある思いを、みんなで共有するためのツールです。質問紙をスキャンして、その場で即座に集計し、きれいなグラフを生成したり、手書きの文字を共有することができます。とくに手書きの部分には、少々的外れなことを書いても気にしない。チャートイットでは、全てをフラットに扱うので、どれもスキップせずに、とにかく全部めくって見てしまおうというスタンスです。ネットの世界では、ブログや Twitter で多種多様、玉石混淆のコメントが飛び交っています。こうした時代に、私たちは限られた時間のなかで「文字情報を高速に読み飛ばす能力」を身につけました。ポジティブな意見もネガティブな意見も、自分の関心にそって、注目したり、読み流すことができます。やってみるとわかりますが、短い時間でたくさんの意見を見るだけで、意外とざっくりと全体像がつかめます。(もちろん「斜め読み」の弊害もあります。じっくり「読み込む」こともとても大切です。)

今回の Learning bar で感じたことは、チャートイットには違う使い方もありそうだということです。じゅうぶん場が盛り上がっている大規模なイベントの場合は、より踏み込んだ質問と分析をすることができそうです。

会場は熱気にあふれていましたね。すてきな会場をつくりあげていただいたスタッフのみなさん。そして、開発中のツールを使っていただき、さまざまな質問にお答えいただいた酒井譲さんと中原先生に感謝します。大変貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

チャートイットは、ムービーカードと同じく、デジタルの強みとアナログの温かみをあわせもったツールです。現在、Windows でも Mac OS でも動作するソフトウェアとして目下開発中です。ご興味のある方は、下記までお問い合わせください。
info [at] moviecards.org

Picture 4

Learning bar で回答していただいた質問の集計結果です。

【Q1】あなたは経営会議に参加していますか?
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【Q2】あなたは経営会議向けの資料をつくっていますか?
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自由記述の回答欄は、手書き文字のイメージを次々に紹介していくことができます。

【Q3】ご意見・ご質問をお書きください
(こちらは、当日とりあげられた質問のひとつです)

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今回は使いませんでしたが、複数の選択肢を用意して、棒グラフとして表示することもできます。
(これは、2010年4月30日「マレビトスクール」で使ったときの画面です)
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関連リンク
Learning barがおわりました! 中原先生のブログ
チャートイット@ラーニングバー 宮原さんのブログ

さよならトーキョー

突然ですが、この春、2年間住んでいた東京をはなれました。ご挨拶できていない方も多くてすみません。2010年4月から、広島県福山市にある福山大学人間文化学部で教員を勤めることになりました。

あっという間の東京生活でした。東京に住む前は、人口密度が高く、せわしない都会に住むことを、ずっとためらっていました。しかし住んでみれば、そのイメージもあっけなくくつがえりました。まさに食わず嫌い、住めば都という言葉を実感しました。東京生活の良いところは、日常生活のさまざまな面で選択肢が幅広く、じぶんの好きなライフスタイルを貫徹できることです。これは、東京に限らず、世界の都市生活に共通する快楽だといえます。

今回、東京をはなれますが、田舎生まれ田舎育ちのわたしにとって、それほど残念な出来事ではありません。ただ、心残りなことが二つあります。

ひとつは、現在ぐんぐん背を伸ばしている東京スカイツリーの成長を見届けることができなくなったことです。ある日、建設中のこのタワーが、自宅から見えるようになりました。それまでツリーの存在は知っていましたが、まったく興味がありませんでした。ところが、自分でもおかしいのですが、視界に入ったとたんに、この巨大な塔が気になる存在になってしまいまいた。ツリーを発見して以来、日々少しずつ成長する様子を遠くから観察することがふだんの生活の楽しみになりました。

もうひとつは、買物のスタイルが大きく変わってしまうことです。東京に引っ越した当初、mixiの日記にこう書いていました。

個人商店がまだ健在なのが嬉しい驚きでした。 徒歩で回れる範囲にいろいろなお店が並んでいます。 私が生まれたところは田舎の商店街ですが、そこの店舗のほとんどが廃業してしまいました。 いまでは買い物は、遠くの大規模ショッピングセンターにクルマで行くしかありません。 それに比べて東京は、ずるいくらい便利です。 だって、都会的なショップと昔ながらの商店街の両面が楽しめるんだもの。 全国平均なブランドが揃うテナントばかりのショッピングセンターに飲み込まれてしまった地方から見ると、うらやましい限りです。

東京に来たとき、いちばん驚いたのは、まだ商店街が生きていたことでした。歩行者と自転車であふれる狭い路地に、八百屋や魚屋、総菜屋、パン屋などが軒を連ねています。商店街で売られている商品は、概して安く、全国各地の生鮮品が豊富に揃っていました。商店街のなかには、個人商店のほかにも、スーパーマーケットもあります。しかし、それは郊外のスーパーとは店構えが異なり、コンパクトに。商店街のなかのスーパーは、店舗面積が限られているため、買物客一人が通り抜けるだけの狭い通路しかありません。

ただ、こうした商店街を持つ町は、東京のなかでも限られたエリアでしかありません。商店街がひしめく町から一歩はなれると、郊外型のスーパーマーケットも幅を利かせています。店舗の前には広大な駐車場がひろがり、ゆったりとした店内通路と陳列棚が備えられています。郊外型スーパーの物価は、商店街とはちがいます。生鮮品は高めで、インスタント食品などのパッケージ商品は安い値段で売られています。こうしたスーパーの値段設定は、物流の条件や地域の顧客のライフスタイルを反映しているといえます。あmた、買物客にとっては、スーパーの値段設定に誘導されて、無意識に商品選択を変化させられているかもしれません。

商店街が繁茂している都心に身を置くと、全国にくまなく広がっている都会的なイメージをまとったファストフード、チェーンストアなどは、けっして都会特有のものではなく、むしろ郊外のためのものだということを思いしらされます。全国的に郊外型スーパーマーケットが隆盛をみせているなか、「都会」である東京だけは、奇妙なことに商店街という「バザール」が生きています。最後に、東京が「バザール都市」であることを再確認させてくれた本を紹介します。

長谷川一『アトラクションの日常』

アトラクションの日常
アトラクションの日常

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長谷川 一
河出書房新社
売り上げランキング: 329563

ここでは、商店街で「買物する」などのふるまいを「アトラクション」という言葉で浮かび上がらせています。それだけでなく、たくさんの映画や本が魅力的に紹介されています。わたしは、この本で、すっかり日常の経験の見え方が変わってしまいました。本の力を感じた本でした。

展覧会と音

先日、文化庁メディア芸術祭に行きました。

第13回文化庁メディア芸術祭
2010年2月3日−14日
国立新美術館
http://plaza.bunka.go.jp/festival/

今年の会場構成は、わかりやすくなったとTwitterでは好評だったようですね。でも私は、例年以上にカオスな雰囲気があった気がします(あまり昨年までのことも覚えていないので適当な印象です)。そう感じた最大の原因は、「音」です。いろいろな作品の音がいくつも重なって耳に入って、頭が痛くなってしまい、会場を早々と退散してしまいました。じっくり観ることができなかったため、良い作品があっても、出会うことができなかったと思うと残念でした。

エンターテインメント部門大賞の「日々の音色」はYouTubeで観て感激しましたが、大きなスクリーン上映では、作品のおもしろさが半減していました。この作品の最も重要な点は、Webカメラの低解像度の質感やビデオチャットの雰囲気を、そのまま私たちが日々使っているWebブラウザで伝えていることです。つまり「日々の音色」は、インターネットのソーシャルメディアならではの「メディア性」を、制作と発表の双方において、うまくいかしているのです。だからからこそ、オンラインの動画共有サイトで発表されたことに意味があります。

同じように、テレビコマーシャルをスクリーンで上映されたり、Webサイトを会場にしつらえたPCで見せられても、しらけてしまいます。作品と、その発表の文脈は密接に関連しているため、作品を美術館に「移設」した時点で、作品の魅力の何割かは失われてしまいます。そこで、「メディア芸術」を美術館で展示するには、オリジナルとは別の見せ方の工夫が求められるのではないでしょうか。アニメーション部門は、キャラクター設定図や絵コンテなどの展示が慣例化しているようです。他の部門でも、単に完成品を展示するだけでなく、創作過程がわかる素材の展示があるといいですよね。たとえば「日々の音色」の制作ドキュメントが展示されていたら、ネットではなく美術館まで足を運ぶ意味がでてきます。

さて、展覧会と音の関係を感じさせてくれた展覧会として、 国立近代美術館のウィリアム・ケントリッジ展を紹介します。

ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……
2010年1月2日(土)~2月14日(日)
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/william_kentridge/

ウィリアム・ケントリッジは、南アフリカ在住の美術家で、ドローイングを描き直してコマ撮りする独特なアニメーションをつくっています。この展覧会では、ドローイングを展示する明るい部屋と、映像を上映する暗い部屋が交互にあらわれる展示構成になっていました。

連作《プロジェクションのための9つのドローイング》の上映は、5作品がひとつの部屋で上映されていました。観客は、手渡されたワイヤレスヘッドホンの受信チャンネルを切り替えながら観賞することができました。実は、ここで私は、チャンネル番号が暗くて確認できず、ほかの作品の音とともに、ある作品を観てしまいました。面白いことに、それでも違和感なく作品を観ることができてしまいました。後で気がついて、あらためて「正しい音」で観ましたが、「正しい音」はビジュアルと直接的に関わりすぎていて退屈だなあと、ひねくれた感じ方をしてしまいました。

ワイヤレスヘッドホンを使った観賞は、隣り合う作品の音の干渉をさけるスマートな解決方法です。一方、そのほかの作品上映はスピーカーを使っていました。スピーカーを使った上映作品の音は、周囲の明るい展示室にも響いていました。しかし、その音は不快な感じはせず、次にどんな作品が待っているのかと想像をふくらませるのにちょうど良い予告編の役割をはたしていました。全体的にみて、ウィリアム・ケントリッジ展は、限られた展示空間のなかで、展示と音をうまく組み合わせた展示構成でした。

ウィリアム・ケントリッジ展は、2009年秋に展示された京都国立近代美術館ですでに話題になっていました。そして、2010年の春には、広島市現代美術館に巡回します。 京都の展示は見ることができなかったのですが、次の巡回展で、どのように展示されるのか見てみたいものです。

書棚のたのしみ

先日、話題の書店内書店「松丸本舗」に行ってきました。

松丸本舗
http://www.matsumaru-hompo.jp/

ここは、本好きならずとも、しばらくは滞在してしまうのではないでしょうか。ソファがあったら、入場料を払ってもかまわないくらいです。

本を並べる

ここで目をひくのは、なんといっても本の並べ方です。普通の書店とも図書館とも違います。おそらく特注の書棚が、全体を三重に包んでいます。書籍の「圧迫陳列」といっていいほど、書棚の高いところから低いところまで、ぎっしり本が詰まっています。本は、書棚に整然と並んでいるのではなく、寝かせた状態で積まれていたり、奥の本が見えないほど、手前にも並んでいて、雑然としています。本は、新しいものや古いもの、小さなものや大きなもの、軽いものや重いもの、いろいろあります。

そして、ここにある本は、ほとんど重複がないため、まるで誰かの(それも相当の博覧強記の人の)書斎にまぎれこんだようです。ただ、ちょっと不思議なのが、ほとんどが「新品」の本だということ。書斎に迷い込んだようだけど、すこし落ち着かなかったのは、書棚にあるのが読まれた感じのない新品だったためです。

「編集者」を感じる書棚

とはいえ、本は、こうやってタテ、ヨコ、ナナメ、手前へ奥へと、自由自在に並べられることで魅力が生まれるのだとあらためて思いました。それも、ただ乱雑に置かれたのではなく、本と本の関係性を考えて配置されているため、魅力が生まれています。ここには、そうした配置した人間の存在を強く感じます。書棚の「編集者」といっていいと思います。

編集者といっても特別なものではありません。一般的にわたしたちの部屋にある書棚も、持ち主の編集の結果で、蔵書の関係性が視覚化された場所だといえます。だれでも自分の蔵書を「編集」して書棚に置いているからこそ、他人の書棚を見たいと思うんでしょうね。著名人の蔵書を再現した書棚もありました。なかでも、福原義春さんの蔵書は、さまざまなジャンルを横断していて面白かったです。

編集者を感じる書棚は、プログラムによってリストアップされるAmazonのおすすめ本とは違います。書店でよくある、ベストセラーの書棚やテーマフェアとも違います。こういったオンライン書店やリアル書店のおすすめは、あくまでも「売る」ために効率的に配置されます。わたしたちにとっても、売れ筋をチェックするには効率的なのですが、そうした書棚だけでは「買わされてる」感じを受けてしまいます。

ネットでやったらどうなる?──「背表紙」の力

このような編集された書棚の試みは、とても興味深いのですが、都心のリアル店舗でしかできないのでしょうか。

こうした試みは、ネットでもできるかもしれません。もちろん、それは、単に現実空間の書棚を仮想空間に再現するという意味ではありません。バーチャル空間ならではの書棚の見せ方ができるのではないかと思いました。

ネットで編集された書棚を見せるときに、本の「背表紙」が圧倒的な力を持つと思います。背表紙のビジュアルは、コンパクトな面積にタイトルや著者名、出版社やシリーズ、本の厚み(つまり、ボリューム)を、一瞬にして伝えてくれます。実は、すでに本の背表紙のイメージを上手に使ったサイト「新書マップ」があります。もちろん、新書マップの魅力は、背表紙のイメージだけでなく、選書してコメントしている「編集者」の存在にあります。

新書マップ
http://shinshomap.info/

例えば、坂本龍馬の新書リスト
http://shinshomap.info/theme/sakamoto_ryoma.html

ネット上で、こんな書棚がたくさん出てくるといいですよね。本棚共有のネットサービスは、いくつかありますが、どこも背表紙を並べた書棚のイメージをつくるのに苦戦しているようです。ネット書棚を充実するために、出版社は、表紙だけでなく、背表紙、裏表紙などの一連の表紙のイメージや、本のサイズがわかるデータベースを提供してほしいと思います。こうしたデータベースがあれば、魅力的な書棚をつくるマッシュアップができそうです。

ところで、2010年は電子書籍の普及が本格化するといわれています。考えてみると、電子書籍に背表紙は必要ありません。それでも、書棚のインターフェイスとして、背表紙のメタファーは電子版であっても使えるのではないでしょうか。

地方でやったらどうなる?

「松丸本舗」は、都心の大型書店がお金をかけたプロジェクトです。この書棚が、雑誌とコミックスしか買えない郊外のショッピングモールにあったらどうなるでしょうか。郊外であっても、潜在的なニーズはあると思います。ヴィレッジヴァンガードが、サブカルチャーの本を中心に、そうした需要を一部掘り起こすのに成功しました。それでは、もうちょっと知的な本を揃えた書棚をつくったらどうでしょうか。面白いけど、売り上げにはつながらないかもしれません。ただ、書店が文化の発進地であることを標榜しているのなら、こういった試みこそ、地方でもやってほしいものです。編集者が見える書棚があれば、読者はきっと応援すると思います。

書棚と平台―出版流通というメディア
柴野 京子
弘文堂
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オリンピック招致映像にみるイメージの力

2016年東京オリンピックの招致プレゼン映像の制作費が高すぎるのではないかと報道されています。 5億円という金額は、庶民感覚としてはもちろん高いのですが、映像の制作費として妥当なのかどうか、わたしには想像のつかない世界です。都民の税金でまかなうのなら、もっと都民にも見せてほしいとは思いますが。 制作費には、本番で使用しなかった部分や、知事の指示で制作をやり直した費用も含まれているそうです。

わたしは、金額はともかく、その中身におどろきました。東京とリオの招致映像がYouTubeにあります。ふたつを見比べてください。

東京

リオ

いかがでしょうか。
2016年のオリンピック開催都市はリオに決まりましたが、この映像だけで比較しても、リオが圧勝しています。

リオの映像イメージは、力があります。スポーツが市民の日常生活と結びついていることが、いきいきと伝わってきます。映像だけで、どのような世界観をアピールしたいかの方向性(ディレクション)が明確に語られているのです。短いプレゼン映像ですべてのことを語ることはできません。そこで、聴衆に強力な印象を与える方向づけが大切になります。きっと、映像ディレクターが、その方向づけを決め、責任をもって作ったのでしょう。

それに比べると、東京の映像は、お金はかかっているように見えますが、陳腐なイメージと脈絡のない場面がつなぎあわされていて、なにを言いたいのかが明確ではありません。あくまで推測ですが、この背景には、責任をもつ映像ディレクターが不在だったことにあるのではないでしょうか。いや、責任をもちたくても、もたせてくれなかったのかもしれません。ここで、気になるのは、「知事の指示で制作をやり直した」ということです。知事は、いったいどんな口を挟んだんでしょうか。