墓場で気づいたメディアアートの生命力 「メディアアートの輪廻転生」 YCAM

この投稿は、potariにも掲載しています。

メディアアートの輪廻転生」展(YCAM)の音声ガイドが楽しかったので、立ち上げ中のサイト「potari」に記事を書きました。個々の作品には言及できていませんが、とても心に残る展示でした。


山口情報芸術センター[YCAM](山口市)で2018年7月から10月にかけて開催された企画展「メディアアートの輪廻転生」展に行ってきた。この展覧会は、メディアアーティストのユニット・エキソニモとYCAMが企画している。ナムジュン・パイク、ラファエル・ロサノ=ヘメル、江渡浩一郎、岩井俊雄、藤幡正樹、徳井直生、八谷和彦、高嶺格、そしてエキソニモと、多くのメディアアーティストが集結している。これはなんとしても行かねば。しかし、この夏の台風や豪雨で何度も見送り、会期終盤になってようやく行くことができた。

会場に着いておどろいたのは、その規模の小ささ。1階にある吹き抜けのホワイエだけで、拍子抜けしてしまった。会場には数多くの垂れ幕が吊るされていて、メディアアーティストたちの言葉が大きく印刷されている。このテキストは、「作品の死」にまつわるアンケート回答らしい。垂れ幕は、空気の流れでわずかに動いたりよじれたりしている。数々の意味深いフレーズが、なにげなく視界に入ってくると、なんらかの信仰が迫ってくるような心持ちになる。しかしここが神聖な場所には思えず、四角い面が散らばっている無機質なバーチャル・スペースのように感じた。

もちろん展示はこれだけではない。会場の中心には「メディアアートの墓」が鎮座している。緑色した円錐状の構築物は、古墳を思い起こさせる。しかし、その山のふくらみは滑らかではなく、板を組み合わせたようでゴツゴツしている。表面は人工芝の鮮やかな緑色に覆われている。周囲の空間と同じように、構築物にも重厚な存在感はない。むしろポリゴン(多角形の面)でできた初期3DCGのように浮遊感があり、仮設テントのようにも見える。奥のほうに墓の内部につながる入口が見えた。この墓のなかが展示の本体のようだ。いくら張りぼて風とはいえ、「墓」のなかに気軽に入っていく気にはならない。気分を落ちつかせ、静かに墓参りに行くように心を入れかえる。

これは墓だと主張するモダンな立て札

入口の前には受付があり、テーブルに音声ガイドの機器が各種ならんでいる。iPadやiPod各種のほか、デジタルビデオカメラやCDウォークマン、ラジカセ、そしてテキストが印刷された紙まであった。この展覧会の音声ガイドでは、「死んだ」録音メディアを選べるのだ。いや、いまでも動作しているのだから、「死んだ」は言いすぎたかもしれない。新しいメディアに取ってかわられ、世間から見捨てられても、機械は動きつづけている。けなげでしぶといやつらだ。

受付には歴代の録音メディアがならぶ

音声ガイドとしてベストかつ常識的な選択肢は、iPadである。好きな順に聴くことができ、関連映像を見ることもできる。しかしわたしは、これから「墓参り」に向かうのにiPadは新しすぎると考え、すこしくたびれたカセットテープのウォークマンを選んだ。実のところ、ウォークマンを選んだほんとうの理由は、かつての相棒を見つけたような気分になったからだ。90年代、いつもこいつを身につけていたことを思い出した。なつかしい友を置き去りにするにはしのびない。

かつての相棒と再会する

墓の内部は、10人も入ると身動きがとれないほど狭い。ほぼ暗闇で足下がよく見えないが、地面に砂があるようだ。土のにおいはなく、合板を張った床に砂をまいているのが足裏の感触でわかる。墓のなかも、どこかチープで荘厳さはない。

墓の内壁に並んだ10の墓室には「死んだ」作品が納められている。音声ガイドのウォークマンの音質は思いのほか良好で、非常にクリアーに聴こえる。音声では、作品が死んだ理由をそれぞれの作者が語っている。しかし作家の肉声は流れてこない。アナウンサーかだれかが代読しているようだ。最後にエキソニモの声を聴いたとき、はっと気がついた。エキソニモは男女2人のユニットだ。左右のイヤホンから、男と女の声が「完全にシンクロ」してしゃべるのが耳に入ってきた。流暢にしゃべっていた声は、人間ではなく機械が合成した音声だったのだ。

音声ガイドになぜ合成音声を使っているのだろう。ここは作品の墓だから、作者の声も封印したのだろう。肉声であれば伝わる口ぶりや作者の人間味は欠落し、言葉の概念のみが鑑賞者の脳へダイレクトに伝わってくる。パイク以外の作家は存命だが、合成音声になることで肉体から解放され永遠の命を得たようだ。ふと、この合成音声が「死んだ」録音メディアに載っていることに違和感をおぼえた。カセットテープ全盛の時代には、これほど流暢にしゃべる合成音声は存在しなかったはずだ。いま体験しているこの組み合わせは、「ありえなかった過去」ともいえるし「あったかもしれない未来」ともいえる。音声ガイドを聴きながら、SF的な世界に入りこんでしまったような奇妙に感覚におそわれた。

展示されている作品が「死んだ」理由はさまざまだった。使用している機器の製造停止、時代の感覚とのずれ、アプリストアの審査基準など。日々移り変わるテクノロジーを使えば使うほど、作品の寿命はみじかい。そのはかなさを悼みながらも、音声ガイドとして動くウォークマンから、ふるいメディアが蘇生する希望も感じた。

メディアアートは死ぬのか。機能的には壊れ、やがて死んでいくのは確かだが、生まれ変わることはできそうだ。生まれ変わるといっても、たんなる作品修復ではない。新たな世代が、別のすがたにして生き返らせてくれるはずだ。メディアアートも、ウォークマンのように死にそうで死なないのだ。本展は「死」や「墓」といった重たいテーマを扱っているわりには、展示空間がやけにさっぱりしている。作品を葬っているのは演出でしかなく、ほんとうは「作品の死」を否定したいのかもしれない。

数々の工夫をこらした本展はすでに終了しているが、特設ウェブサイトにはインタビュー映像や関連エッセイなど充実した記録がアップされている。時代の変化とともに走りつづけるメディアアートに思いをはせて、墓参りのつもりで訪ねてみてはいかがだろうか。

特設ウェブサイト (rema.ycam.jp)

常識外れの人びと

広島市現代美術館の特別展「HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン」に、会期最後の週末にすべりこみました。実は広島県に引っ越してきて、はじめての広島訪問です。広島に来たのは、なんと中学生の修学旅行以来です。

広島市現代美術館は、比治山下電停から坂道をのぼった比治山公園の中にありました。以前から、この美術館のシンボルマークが何をあらわしているのか分からなかったのですが、電停を降りた瞬間に理解できました! これには比治山のなかにある美術館へたどる坂道が描かれていたのですね。

会場は写真撮影可能でした。わたしは写真を撮らなかったので残念ながらここは写真なしですが、展示室の様子を知りたい方は、ぜひ検索してみてください。写真つきのブログがたくさんみつかりますよ。

都築響一は、「珍日本紀行」や「賃貸宇宙」、「ラブホテル」など、これまで正面きって取り上げられることのなかったスポットや「常識外れの人びと」を追いかけている写真家、編集者です。会場入口の壁一面に、次のメッセージが大きくはりだされていました。

僕はジャーナリストだ。アーティストじゃない。

ジャーナリストの仕事とは、最前線にいつづけることだ。そして戦争の最前線が大統領執務室ではなく泥にまみれた大地にあるように、アートの最前線は美術館や美術大学ではなく、天才とクズと、真実とハッタリがからみあうストリートにある。

ほんとうに新しいなにかに出会ったとき、人はすぐさまそれを美しいとか、優れているとか評価できはしない。最高なのか最低なのか判断できないけれど、こころの内側を逆撫でされたような、いても立ってもいられない気持ちにさせられる、なにか。評論家が司令部で戦況を読み解く人間だとしたら、ジャーナリストは泥まみれになりながら、そんな「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」に突っ込んでいく一兵卒なのだろう。戦場で兵士が命を落とすように、そこでは勘違いしたジャーナリストが仕事生命を危険にさらす。でも解釈を許さない生のリアリティは、最前線にしかありえない。そして日本の最前線=ストリートはつねに発情しているのだし、発情する日本のストリートは「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」だらけだ。

この展覧会の主役は彼ら、名もないストリートの作り手たちだ。文化的なメディアからはいっさい黙殺されつづけてきた、路傍の天才たちだ。自分たちはアートを作ってるなんて、まったく思ってない彼らのクリエイティヴィティの純度が、いまや美術館を飾るアーティストの「作品」よりもはるかに、僕らの眼とこころに突き刺さってくるのは、どういうことなのだろう。アートじゃないはずのものが、はるかにアーティスティックに見えてしまうのは、なぜなんだろう。

僕の写真、僕の本はそんな彼らを記録し、後の世に伝える道具に過ぎない。これからお目にかける写真がどう撮られたかではなく、なにが写っているかを見ていただけたら幸いである。

これは発情する最前線からの緊急報なのだから。

展覧会解説ブログ・サイトより
http://hiroshimaheaven.blogspot.com/

会場は、これまでの都築響一の仕事のシリーズが展示してあります。その意味では都築響一の著作からの抜粋でしかないともいえますが、美術館の空間をいかした展示には雑誌や本のページとは違った味わいがありました。また、本展覧会独自の内容もありました。独自展示のひとつは、広島の人はみんな知っている(らしい!?)地元の有名ホームレース「広島太郎」を取材したものです。そのほかにも、見世物小屋絵看板の実物展示や、カラオケスナックのブース、秘宝館を再現したものもありました。秘宝館だけは、18歳未満お断り。展示室にヌード写真があふれているのに、このゾーンだけ年齢制限を設けているのは、秘宝館への敬意のあらわれでしょうか。秘宝館のなかでは、女性の観客が写真を撮りまくっていたのが印象的でした。

それにしても広島市現代美術館は、特別展「一人快芸術」といい、芸術という枠をこえた企画で異彩を放っている美術館です。

ところで、「常識外れ」といえば、常識を疑う思考を持とうと謳っている本『20歳のときに知っておきたかったこと』が売れています。この本は、読者に常識を疑うことを奨励し米国流の起業家精神を鼓舞する点において、「シリコンバレー流」であり、人生訓をちりばめながら成功の秘訣を説く点においては、巷に溢れている自己啓発本の類と大差ありません。すなわち「シリコンバレー流の自己啓発本」ですから、生活している社会も文化も違う私たちはある程度の距離を持って批判的に読んだほうがいいでしょう。

この本が謳う「常識外れ」は、都築響一が見出した「常識外れ」とは全く異なります。本書の「常識外れ」は、あくまでもビジネス的な成功、つまり金儲けと社会的名声の獲得を目的としているからです。たとえば、こんなエピソードが得々と披露されています。著者は会議のため滞在した北京で、万里の長城で日の出を見るという現地旅行を会議参加者と約束したものの実現が難しく途方に暮れます。ところが偶然出会った中国人学生に大学入試の推薦状を書いてあげることで、引き換えに現地旅行の手配をしてもらったというのです(172-3ページ)。このように、自分の名声のためには、手段を選ばない「なんでもあり」の職権濫用さえ許されてしまうことには、思わずつっこみたくなります。

著者は、多くの有名起業家たちのエピソードから、人生訓を引き出していますが、残念ながらどれも彼らの人生を表面的になぞっているだけで、心に響いてはきませんでした。なぜ今こんな本が日本で売れているのでしょうか。みんな、本書でたびたび引用されているスピーチの主であるスティーブ・ジョブズのような米国流成功者になりたいのかもしれませんね。確かにジョブズは、「常識外れ」でした。本書では触れられていませんが、彼は電話のただがけ装置「ブルーボックス」を売り歩いていたほどクレイジーでした。人間にはいろいろな面があります。しかし本書では、人生の失敗経験さえも成功への道の一つとして語られます。米国の成功者は、どんなエピソードさえも、最終的に自身の成功物語に組み込んでしまうしたたかさを身につけなければならないようです。

一方、都築響一は、商業ライターのトップランナーとはいえません。彼は、雑誌が描きつづける虚構にうんざりしたことを告白しています。雑誌が伝えるような、北欧家具に憧れ、高級外資系ホテルに泊まるようなライフスタイルを、誰もが一様にえらんでいるわけではありません。日常に溢れる生活レベルの文化をすっかり無視して、消費を生み出そうとする虚構だけを繰りだしているメディアの片棒を、彼は担ぎたくなかったのでしょう。それよりも、日本人の日常生活に充満している文化を、カラオケスナックやラブホテルの姿などを通じて伝えていくことに転向したのです。

私たち読者や観客は、都築響一が伝える「常識外れの人びと」を、ひとつの「見世物」として楽しんでいます。常人では達成しえない技への驚きやとまどい、おそれを楽しむという態度は、制度確立以前のアートへ回帰しているようでもあります。「常識外れの人びと」の多くは、有名起業家と違って、生産的ではないし社会的な成功とは無縁です。しかし都築響一は、彼らを奇人変人として軽蔑したり、ネタとして消費しようとするのではなく、私たちと生活文化を共有しているひとつながりの人間として、やさしさに満ちた眼差しを注いでいます。都築響一の視線にうながされて、私たちも「常識外れの人びと」に不思議な共感や親しみを感じてしまいます。ところで、ここで紹介した本を書いたスタンフォードの先生は、都築響一が伝える「常識外れの人びと」を見て、賞賛するでしょうか。おそらく、一瞥するなり、こう叫ぶのではないでしょうか。「クレイジーだ!(成功してないじゃん!)」。

私なら、20歳の人にこうおすすめします。「常識外れ」は大賛成。でも雑誌や自己啓発本に描かれる「常識外れ」は、ある「型」にはまっているおそれがあります。だからどうか、その内容を鵜呑みにしないでほしい。……ちょと天の邪鬼すぎるかしら。

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展覧会と音

先日、文化庁メディア芸術祭に行きました。

第13回文化庁メディア芸術祭
2010年2月3日−14日
国立新美術館
http://plaza.bunka.go.jp/festival/

今年の会場構成は、わかりやすくなったとTwitterでは好評だったようですね。でも私は、例年以上にカオスな雰囲気があった気がします(あまり昨年までのことも覚えていないので適当な印象です)。そう感じた最大の原因は、「音」です。いろいろな作品の音がいくつも重なって耳に入って、頭が痛くなってしまい、会場を早々と退散してしまいました。じっくり観ることができなかったため、良い作品があっても、出会うことができなかったと思うと残念でした。

エンターテインメント部門大賞の「日々の音色」はYouTubeで観て感激しましたが、大きなスクリーン上映では、作品のおもしろさが半減していました。この作品の最も重要な点は、Webカメラの低解像度の質感やビデオチャットの雰囲気を、そのまま私たちが日々使っているWebブラウザで伝えていることです。つまり「日々の音色」は、インターネットのソーシャルメディアならではの「メディア性」を、制作と発表の双方において、うまくいかしているのです。だからからこそ、オンラインの動画共有サイトで発表されたことに意味があります。

同じように、テレビコマーシャルをスクリーンで上映されたり、Webサイトを会場にしつらえたPCで見せられても、しらけてしまいます。作品と、その発表の文脈は密接に関連しているため、作品を美術館に「移設」した時点で、作品の魅力の何割かは失われてしまいます。そこで、「メディア芸術」を美術館で展示するには、オリジナルとは別の見せ方の工夫が求められるのではないでしょうか。アニメーション部門は、キャラクター設定図や絵コンテなどの展示が慣例化しているようです。他の部門でも、単に完成品を展示するだけでなく、創作過程がわかる素材の展示があるといいですよね。たとえば「日々の音色」の制作ドキュメントが展示されていたら、ネットではなく美術館まで足を運ぶ意味がでてきます。

さて、展覧会と音の関係を感じさせてくれた展覧会として、 国立近代美術館のウィリアム・ケントリッジ展を紹介します。

ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……
2010年1月2日(土)~2月14日(日)
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/william_kentridge/

ウィリアム・ケントリッジは、南アフリカ在住の美術家で、ドローイングを描き直してコマ撮りする独特なアニメーションをつくっています。この展覧会では、ドローイングを展示する明るい部屋と、映像を上映する暗い部屋が交互にあらわれる展示構成になっていました。

連作《プロジェクションのための9つのドローイング》の上映は、5作品がひとつの部屋で上映されていました。観客は、手渡されたワイヤレスヘッドホンの受信チャンネルを切り替えながら観賞することができました。実は、ここで私は、チャンネル番号が暗くて確認できず、ほかの作品の音とともに、ある作品を観てしまいました。面白いことに、それでも違和感なく作品を観ることができてしまいました。後で気がついて、あらためて「正しい音」で観ましたが、「正しい音」はビジュアルと直接的に関わりすぎていて退屈だなあと、ひねくれた感じ方をしてしまいました。

ワイヤレスヘッドホンを使った観賞は、隣り合う作品の音の干渉をさけるスマートな解決方法です。一方、そのほかの作品上映はスピーカーを使っていました。スピーカーを使った上映作品の音は、周囲の明るい展示室にも響いていました。しかし、その音は不快な感じはせず、次にどんな作品が待っているのかと想像をふくらませるのにちょうど良い予告編の役割をはたしていました。全体的にみて、ウィリアム・ケントリッジ展は、限られた展示空間のなかで、展示と音をうまく組み合わせた展示構成でした。

ウィリアム・ケントリッジ展は、2009年秋に展示された京都国立近代美術館ですでに話題になっていました。そして、2010年の春には、広島市現代美術館に巡回します。 京都の展示は見ることができなかったのですが、次の巡回展で、どのように展示されるのか見てみたいものです。

デジタルなデザインの「骨」とは?

21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「骨」展をみました。「骨」といえば生物のそれを思い浮かべますが、この展覧会では、工業製品のデザインの「骨」とは何かということを追求しています。

21_21 DESIGN SIGHT
http://www.2121designsight.jp/

腕時計の部品が、すべて並んでいた展示は圧巻でした。当たり前ですが、これほど多くの小さな部品たちが組み合わさって時計ができているんですね。こどものころ、時計を分解して、元にもどせず壊してしまったことを思いだしました。人はなぜ、機械を見ると分解したくなるのでしょうか。精巧で美しい機械を前にすると、表面的な美しさではなく、動作の原理・メカニズムをとらえたい知的好奇心をゆさぶるからだと思います。

からくり人形『弓曵き小早舟』では、通常見ることのできないからくり人形の骨格がむきだしになって展示されていました。この人形、矢をつかんで弓をひいて的を射る、という一連の動作をするそうです。実際に、うごいているところをみたかったです。

ところで機械が複雑化した今日、私たちは、いまや時計を分解する勇気をもてなくなってしまいました。複雑にモジュール化した機械は、その構造を探求することじたいが難しくなってしまったからです。アナログの時計なら分解できたかもしれませんが、デジタル時計のICチップや基盤を見ても動作原理を理解することができません。

会場では、デジタル系の作品を出展していた3人──中村勇吾、緒方壽人、五十嵐健夫によるクリエイターズトークを聞きました。トークでは、出展作品のアイデアから、最終的な出展作品の形態に落ち着くまでのプロセスを聞くことができ、とても興味深かったです。

デジタル系の作品はどれも面白かったのですが、ちょっと物足りなかったのは、他の作品よりも「骨」が見えづらかったことです。これらデジタル系作品の「骨」は何でしょうか。プログラムのソースコードやアルゴリズム、データ構造かもしれません。私は、制作者の頭のなかにある、作品を完成にみちびくための、論理的な概念図のようなものが「骨」にあたるのではないかと思います。せっかくの「骨」展なので、この「骨」をなんとか可視化して展示してほしかったと思います。

会場のショップで、遊び心と探求心で彩られた素敵な素敵な本を見つけました。電車や飛行機、オペラ劇場など、いろいろなものを輪切りにしたイラストで図解した絵本です。やっぱり物事は表面だけでなく「骨」を見つけられると、わくわくしますね。


"クロスセクション―輪切り図鑑 有名な18の建物や乗物の内部を見る" (リチャード プラツト)

活版体験!

printinghouse.jpg

印刷博物館の印刷工房で、活版印刷を体験しました。

印刷博物館
http://www.printing-museum.org/

自分で書いた原稿の活字をひろう文選と植字作業、
さいごにアダナ印刷機での刷りをしました。

実は、実家で活版印刷をやっていたので、文選はよく手伝っていました。
ただし、植字や組み付け、刷りは父だけの聖域でした。

子供の頃、父の目を盗んでは、手動の印刷機のレバーを上下させては遊んでいました。
ディスクとローラーが密着してインクが練られるのが何とも気持ちがいいんです。

植字をやったのは、初めてです。
センタリングするには、込め物を左右に同じ量つめますが、
欧文でわずかなすき間が空いてしまいました。
最も薄い込め物が、0.25(mmかな?未確認)だけれど、
両方に入れる2個分のすき間はありません。
「そういう時は、単語間の空白に足してごまかせばいい」と、インストラクターさん。
なるほどなあ。

わずか1時間ほどの体験でしたが、楽しかったです。
あー、組み付けや解版までやってみたい。

ちなみに、上のイラストは樹脂版です。