荒俣宏『決戦下のユートピア』

きょうは、即位の礼とかで祝日だった。

荒俣宏『決戦下のユートピア』を読了。ゼミ生に紹介してもらった本。もとは同僚の先生のおすすめ本だったそうだ。

第二次世界大戦中の日本を大きな歴史としてではなく、庶民の体験の目線から描く。国家の自粛強制、ファッション、貯蓄奨励に有事のための保険、戦力確保のための教育、敵国を貶めるプロパガンダ、オカルトや新宗教信仰の流行など幅広いトピックがならぶ。発明奨励のところには、こうの史代『この世界の片隅に』に登場した「楠公飯」が登場していた(p.270)。

戦時下においても、人々がたくましく生きていることに心強さを感じる。一方で、これでは敗戦もやむをえないだろうと感じる珍妙なエピソードも多い。今となっては、大真面目なようで面白おかしい話がたくさん出てくる。戦争といえば悲惨な出来事で、庶民は苦しい生活を余儀なくされた。静かに振りかえるべき重たいトーンの時代なのに、つい笑ってしまう。

台風19号の被災はいまもつづく。皇室イベントを中継するNHKの画面は、災害復興情報が逆L字で囲まれている。この国はいま、おめでたいのか、かなしいのか。『決戦下のユートピア』が追いかけた戦時中の建前と本音、歴史と実情のあいだにあった「あべこべ」が、今の日本にも発見できそうである。これが非常事態への予兆でなければよいのだけれど。
(567字・22分)

決戦下のユートピア (文春文庫)

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この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

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赤川学,2004,『子どもが減って何が悪いか!』筑摩書房.

本書は、近代日本のセクシュアリティを研究テーマとする歴史社会学者による、社会に蔓延する定説に異を唱えた告発本である。その定説とは、「男女共同参画の推進が少子化対策につながる」という主張だ。このような本を書くのは相当の勇気と覚悟が必要だ。なぜなら、この手の反論は、敵を多くつくるからだ。それでもなお、恣意的なデータの利用に警鐘を鳴らし、学問的誠実さを貫いた著者の態度に敬意を表したい。

この本は終始研究者らしく冷静に論じられているので、読者によっては、とっつきにくさを感じるかもしれないが、最後まで読んでほしい。主張への賛否は分かれても、少子化社会の制度設計がどうあるべきかについて思いをめぐらせることができる。

本書の序盤では、数々の統計データを分析することで定説を覆していく。統計の専門用語が並び、素人にはやや難解だがスリリングである。15年の前の本だが状況はあまり変わっていないように感じる。

筆者は、男女共同参画の推進そのものを否定しているわけではない。ただ、男女共同参画を進めることが少子化対策につながるという主張が科学的とはいえないと批判しているのだ。しかしこの主張は誤解を受けやすいようで、何度も注釈をつけながら論を進めている。筆者は、本書の主張によって、多くの論者から批判を受けたそうだ。具体的には、「男女共同参画を実現するという理念のためには手段を選ばない」人々の反発や、政治的な正しさを求める人々からの心理的反感を招いたのだ。

現代社会における男女共同参画は、まぎれもないポリティカル・コレクトなトピックである。本書の主張は、その潮流に逆行する政治的に誤った訴えに一見映ってしまう。そのため、「正しい」政策に抗うとは何事か、という脊髄反射的な反応を得てしまうのだろう。

第6章「少子化はなぜ止まらないか」では、少子化の原因が考察されている。ここで紹介されている「相対所得仮説」や「人口容量」には説得力があった。相対所得仮説とは、結婚することで生活水準が上がると見込めば結婚するという仮説である。人口容量という考えは、一つの国家がどれだけ人口を養えるかを示した公式だ。じつは両者とも、人々が「認知」する生活水準と深く結びついている。これは統計データにあらわれる絶対的な所得の分布から実証するのは難しく、個人個人の成長とともに得られた実感から推測するしかない。人々は必ずしも計量的なデータに基づいた論理的な判断をくだすとは限らない。人間の認知や感情まで考慮した制度設計をどのようにすればよいのか。重い課題だ。

著者の主張はシンプルで、少子化は避けられないものだから所与のものとして制度設計すべき。そして、なによりも各人の「選択の自由」を尊重するということだ。その自由を保証するには、「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても何のサンクション(懲罰や報奨)も受けない制度設計」(p.204)が必要だと論じる。論理的な結論ではあるが、現実の日本の政治を見ると、個人の「選択の自由」をひろげるような政策を進めているとはいえず暗澹とした気分になる。本書の議論は、公共の福祉や年金システム、世代間格差などへと拡散する。少子化というワン・イシューを論じるだけでも、結局は社会全体の福祉をどうしたいのかに着地する。

それでは、どのような社会を実現すればよいか。スウェーデン方式の年金制度などの提案はあるものの、全体の展望は明確ではない。たとえば子育て支援は、子供の人権の観点から基礎づけ、子供本人に支給するべきという意見(p.181)には、なるほどと思う。しかし子供本人に支給するというのは、結局親権者の管理となるので、現行の児童手当と変わるところがない。子育てや介護は私的な領域であり、特定のライフスタイルのみを重点的に支援する根拠が薄弱なのはわかる。しかし最大限の自由を保証するために、偏りなく分配する方法はなかなか難しい。

冒頭に書いたように本書は研究者の矜持をもって書かれていて、世間をにぎわせる話題先行型の本にあるような脅しや煽り、人間味あふれるエピソードなどは皆無だ。そのため、合理的思考を好む読者には読みやすいだろう。一方で、ときに「高齢者/子供という存在自体が尊い」という分かりやすい価値観に真っ向から反するような冷徹な書きかたには、心理的抵抗を抱く読者もいるかもしれない。とはいえ本来であれば、このような冷静な議論をベースに社会の制度を設計すべきである。しかし人は、「認知」「感情」の生き物だ。どうしても「心をつき動かされる」論にたよってしまう。その意味で、制度設計の困難さと少子化の原因は根が同じであることに気がついた。

(1931文字)

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

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筑摩書房
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阿部共実,2014,『ちーちゃんはちょっと足りない』秋田書店.

なにかの評で買って積んでいたのを、まったく前情報なしで読んだ。中学生たちの日常を描いたほのぼのした漫画かとおもいきや、人間の心の闇を描く恐ろしい作品だった。

まず、タイトルにだまされる。ちょっと足りない=知能の発達がおくれている、ちーちゃんの言動をあたたかく見守る物語だととらえてしまう。実際には、ちーちゃんをとりまく同級生たちの群像劇だ。なかでも、ちーちゃんの友人、ナツが真の主人公だった。

読み進めてわかるのは、何か「足りない」のは、ちーちゃんではなく、ナツのほうだということ。いつも周りと比べて、欠乏感と羨ましさばかりが募らせている。ちーちゃんとつきあっているのは、友情なのか、「足りない」同士という連帯感なのか。

ちょっとした事件をきっかけに、ちーちゃんの周りの人間関係が大きく動く。しかしナツだけは変わらず、「足りない」ままだ。それでもナツは、ちーちゃんにすがる。そこに友情はあるだろうか。こども時代に周りとのささいな差異になやんだことのある者なら、だれでも思いあたるところがあるだろう。心の奥にしまっていた苦い思い出を浮かび上がらせる残酷な物語だった。

ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックスエクストラもっと!)

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秋田書店 (2014-05-08)
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内田伸子,2017,『子どもの見ている世界: 誕生から6歳までの「子育て・親育ち」』春秋社.

発達心理学の専門家による子育て本である。一斉保育から自由保育に切り替えると宣言していた園長先生がすすめていたので読んでみた。発達における性差(物語型と図鑑型)、認知革命、ことばの獲得、絵本、スマホ、英語学習など、未就学児までの育児のトピックを研究成果をもとに解説する。

育児本には地雷が多い。学力格差の恐怖をあおる扇情的な本や、ひたすら道徳的にとく説教本、ひとりの母による成功譚(サンプル1!)があふれている。そうした有象無象の本の群れから本書は抜きんでている。

本書がうたう子育ては、自律的思考力や創造的創造力をはぐくむように子どもの気持ちによりそうという、きわめて凡庸なものだ。けれど説得力はある。とくに、一斉保育よりも、自由保育。強制型しつけではなく、共有型しつけをすすめるところ。経済格差が学力格差につながるのではなく、親の子への接し方が決定的であるという信念をかんじた。もちろん経済格差は大きな要因ではあるが、しつけのしかたがそれを上回るということだ。

凡庸だと書いたが、意外な発見もあった。体操教室など運動系の習い事をしていると運動嫌いになる可能性が高いのだとか。教室の内容が一斉保育、強制的しつけに近いからだろう。

本書では、英語の習い事は、語学の習得には役に立たないと断じている。しかし、外国人や外国語に触れる経験は、世界の多様性をしることになり悪いことでないのではと感じた。

さいごに著者の提案をまとめておく。

1.子どもに寄り添い、可愛がり、子どもの「安全基地」になること。
2.その子自身の進歩を認め、ほめること。
 「3つのH」ほめる、はげます、(視野を)ひろめる
3.生き字引のように余すところなく定義や回答を与えないこと。
4.裁判官のように判決を下さないこと。禁止や命令ではなく提案の形で伝えてほしい。
5.子ども自身が考え、判断する余地を残すこと。

育児本のなかには、「強制型しつけ」的な本もある。いくつかの幼児教育もそうだ。子どものときに強制型しつけを受けた親は、そうした本に影響を受けてしまうのではないか。体罰を受けたことのある大人が、体罰を肯定するように。負のループを断ち切るのに、本書が役にたつとよいけれど。

(912文字・18分)

子どもの見ている世界: 誕生から6歳までの「子育て・親育ち」

子どもの見ている世界: 誕生から6歳までの「子育て・親育ち」posted with amazlet at 19.05.04内田 伸子
春秋社
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村上隆,2010,『芸術闘争論』幻冬舎.

本書は、村上隆がニコニコ動画で生放送した内容をもとにした『芸術起業論』のパート2にあたる。『芸術起業論』は本棚にあるが読んでいないかもしれない。編集は穂原俊二と河村信。ブックデザインは鈴木成一と鈴木貴子(鈴木成一デザイン室)。

村上は、若者に世界のアートシーンで活躍する方法を教える。講義録のようなものなので話題はあれこれ飛び、体系的なまとまりはない。自作の制作プロセスの解説は興味深いが残念なことに図版がモノクロだった。

彼が強調するのは、アートというのはグローバルな市場におけるゲームであるということだ。ゲームにはルールがあり、そのルールさえ理解して「傾向と対策」をほどこせば世界で活躍できるという。一方、日本の美術大学の教育を批判し、貧乏で自由であることを正義とする日本の「自由神話」を徹底的に叩きのめす。

村上は、アーティストを目指す若者をロウアートのクリエイティブに恵まれない落ちこぼれだという。海外の美術大学は批評を中心としたディスカッションで進むが技術がない。その代わり、日本の予備校教育は一定の技術レベルに引き上げるノウハウをもっている。だから予備校の生徒に「傾向と対策」をほどこし、世界にデビューさせる試みをおこなっているという。ちなみにアーティストとしてサバイブする方法は、信用を増やすといったしごく常識的なものだった。

美大の目指す「自由」というのは無軌道な「自由」であり、その無重力状態を洗脳しているので学生は行き場がないのです。ただ、学生ももともとが「才能のない落ちこぼれ」ですから「苦労は嫌」「考えるの嫌」というのもある。なのに意外とみんなカッコつけていて、下積みは嫌いで理屈をひねり出すんです。それで、使い道のないような人間がどんどん量産されている。予備校で勉強している時はみんな一生懸命で、大学に入りたての頃は学生は希望をもっているわけです。けれども、いつの間にか、「自由神話」によって何の役にも立たない、ただのボンクラになって卒業したらもう一回、専門学校に行き直したりして3DCGのアニメーターになったりする現状があります。(pp.211–2)

村上が批判する美術大学教育の惨状はわからなくもない。内省的、私小説的な作品が不当に高く評価される異様なところもあるだろう。ただ、ダメな学生もいれば、したたかな学生もいる。美術大学では教えてもらえることなんてほとんどない。大学で獲得できるのは、教員を含むネットワークと設備だろう。ある美術家は、大学で学ぶことはないと早々に割り切って、技術職員を通じて技術を獲得することに集中していたと振りかえっていた。

この本を読むと、アーティスト(あくまで村上隆が定義するところのだが)ってつまらないなと感じる。文脈を複数にするとか、話題をマルチプルにするとか、一芸にとどまらずメディアを変えるとか、そういったノウハウは、たしかに「傾向と対策」だろうが、どれも小手先の技術に見えてしまう。アーティストが抱えている問題意識ってそんなに浅かったのか。彼らの作品や言葉は、こんな策略のもとで世に出ていたのだとすれば、ひどくがっかりする。

「自由神話」の否定はよくわかるのだけれど、ここまで評価経済を意識して立ち振るまうのなら、アートもビジネスや文化人の業界と変わらないということだ。それはそれで振り切っていてすがすがしくはある。しかしこの舞台は、あくまで村上隆や世界のトップアーティストたち(の多く?)によって演じられている特殊な世界だと突きはなし、本書を相対化しておくことも必要だ。

徹底的にリアリストな村上がヘンリー・ダーガーにたびたび言及しているのがおかしい。アートシーンすら意識していないダーガーが気になるのは、意図的なノウハウだけでは割り切れないものがあるからだろう。アートは、世界の景気動向と密接にむすびついた、きわめて資本主義的な世界だ。だから村上のような打算的なアーティストたちがしのぎを削っている。その舞台の裏側では、だれからもスポットライトがあてられないダーガーのようなアートに心を打たれることがあり、アートが更新されることもあるかもしれない。そんなことを期待してしまうのは、現実離れだろうか。

(1734文字・41分)

芸術闘争論

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村上隆,2018,『芸術闘争論』幻冬舎文庫.

芸術闘争論 (幻冬舎文庫)

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