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令和

2019年4月1日の記録。エイプリルフールの流行は過ぎさって、企業がおかしな悪ふざけをして話題づくりをしなくなった年のようにみえる。この年度替わりは、自分にも身近な人にも大きな動きはなかった。

国民の話題となった(らしい)のが、新元号の発表。11時30分に会見で発表されるという。インスタやツイッターなど首相官邸の公式SNSでも中継する。ちょうどその時間、Webを見ていたので、NHKサイトの同時中継をのぞいていた。数分待ったけれど、はじまる気配がない。わざわざ待ってまで知りたいほどではないので、昼ご飯を買いに部屋を出た。

新元号は、外でTwitterのタイムラインをみて知った。部屋にもどるとテレビでは、街で街頭スクリーンをみつめたり、スマホ片手に固唾をのんだりして発表を待つ人びとを写していたけれど、わたしが歩いた場所ではふつうに働いている人がいる普段どおりの風景だった。あのような祝祭的風景は、都市部や余裕のある職場などに限られるのではないか。NHKでは、岩田明子や中川翔子らがスタジオでコメントしていた。

「令和」という名前には馴染みがないけれど、「平成」のときもそうだったように時間が解決してくれるだろう。それでも、令と和というのは、水と油のような、寒と暖のような、あまり相性のよくなさそうな組み合わせに感じてしまった。「令」という漢字に、おめでたい意味があるとは知らなかった。

元号が話題になるのは、「日本の伝統」がすきな人にとっては、きっとうれしいことなんだろうな。国書が由来であることもよろこばしいのだろう。一方、元号が変わることで、もう西暦だけを使おうという動きも大きくなるはずだ。

そもそも元号はイデオロギー色が強いのに、こんなにお祭り気分の伝え方でよいのか疑問だ。1979年の元号法制定を働きかけた「日本を守る会」から「日本会議」につらなる思想には、すこしは批判をなげかけてもいいじゃないか。もちろん西暦だってイデオロギーだろう。でもグローバル化した世の中をスムーズに生活するには、元号よりも西暦を採用しようよという議論をしてもよいはずだ。

発表された「令和」に涙までながして感極まる人をテレビカメラがとらえてインタビューし、その様子をみた中川翔子がよかったとコメントする。NHKニュースは、芸能、スポーツの話題が多いし、ここ最近(といっても、もう何年もかな)、いくらなんでもおかしいんじゃないかと感じる。この違和感は、同世代の人ともあまり分かちあえない。自分は小学生のときからリベラルな論調の新聞を熟読していたせいなのかな。新しい時代をつくるのなら、天皇制だって元号法だって考えなおしてもよい。既存の制度を無批判に受け入れて感動するよりも、国のありかたを根源的に考えつづけるほうが、よほど愛国的じゃないのかな。

日本会議の研究 (SPA!BOOKS新書)
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新年好

2018年の年末は、とある理由で台湾の中部と南部にいた。年末年始を海外で過ごすとはおもってもみなかった。そんなことはセレブがやることだと思いこんでいた。ところが、とつぜん3週間前に手配し渡航することになった。結果として、年末年始に日本を離れるのは心理的にかなり快適であることが判明した。じつは日本年末年始の一連の習慣やムードが好きじゃなかったということを確認した。大掃除、紅白歌合戦、初詣で、初売り、しめ飾り、おせち、おもち、年末年始のどうでもよい番組……。こうしたことがらに無縁でいられることが、こうも幸せだったとは。そりゃ海外に行きたくなる。とはいえ高いので、毎回行けそうにはないけれど。

台湾では「年末年始感」がほとんどなかった。大晦日の夕方に乗ったUberの運転手から、別れぎわに「新年好」とあいさつされる。このドライバーさん、1500回以上5つ星評価を得ている理容師らしい。沿道の提灯店が珍しくて写真を撮ろうとしたら、さっと窓を開けてくれるし、サービス満点だった。元日にチェックアウトしたホテルのカウンターで、新年のカレンダーをもらう。いい加減な発音で「新年好」とあいさつしてみたら、相手は一瞬きょとんとしたが、返してくれた。台湾の人にとっては、旧正月が本番なのだろう。

この旅では、海外ではじめてレンタカーを借りた。左ハンドルのフォード車で右側通行。シートベルトをたぐろうとして左右を間違え、ウィンカーを出そうとしてワイパーを動かす。とくに初日は何度もやってしまった。ほかにも操作がちがうことがおおく、慣れるまで時間がかかる。車が走っていない田舎道では、無意識に左側を通行してしまい、同乗者に指摘され冷や汗をかいた。とはいえ台湾の道路はおおむね走りやすかった。都市部はバイクが多いが、たいてい車線が分離されていて、あまり心配いらない。郊外に出るとバイクの姿がなくなり、流れにあわせると、ほとんど高速道路のようなスピードになる。郊外の幹線道路には信号や交差点がほとんどなく、カーブやアップダウンも少なく、自動車に最適化されているように感じた。

しかし台湾のモータリゼーションは途上にあるようにみえる。いまはバイクが日常の足になっているが、だれもが自動車を買うようになると、道路はあっという間にパンクするだろう。郊外の都市をいくつか訪ねたが、まちなかに駐車場があまりない。路肩にあるのはバイク用の駐輪スペース。路上駐車のスペースがある道はほとんど「満車」で停められない。コンビニによりたくても駐車場がない。しかたなく向かいの商店の前の路肩に停めようとしたら、店主にすごい剣幕で怒られた。そりゃそうだ。言葉がわかれば何か買えたのだけれど、そういう交渉ができない。駐車場のあるコンビニというだけで、Google Mapsでは高いレビューがついていた。

現地はおもいのほか寒かったので現地で服を買った。この年越しでは、はじめての経験をすることがいろいろあって楽しかった。レンタカーの運転はさすがに緊張したけれど。

昨年は、福岡に毎週通ったり、アメリカに行ったり、北海道に行ったりと、やや動けるようになってきた。4月にゼミがスタートしたものの、時間割にないのでぎこちない始動となった。ともあれ先輩のいない1期生というのは、のびのびしていて悪くない。6月には共訳した『Generative Design with p5.js』が刊行。9月にはDxD公開研究会を開催することができた。2年目のSMAARTでは、笠井さん、牛島さん、高橋さん、鷲尾さんをお呼びすることができた。12月にはpotariがプレオープンした。

2019年もよろしくお願いいたします。

墓場で気づいたメディアアートの生命力 「メディアアートの輪廻転生」 YCAM

この投稿は、potariにも掲載しています。

メディアアートの輪廻転生」展(YCAM)の音声ガイドが楽しかったので、立ち上げ中のサイト「potari」に記事を書きました。個々の作品には言及できていませんが、とても心に残る展示でした。


山口情報芸術センター[YCAM](山口市)で2018年7月から10月にかけて開催された企画展「メディアアートの輪廻転生」展に行ってきた。この展覧会は、メディアアーティストのユニット・エキソニモとYCAMが企画している。ナムジュン・パイク、ラファエル・ロサノ=ヘメル、江渡浩一郎、岩井俊雄、藤幡正樹、徳井直生、八谷和彦、高嶺格、そしてエキソニモと、多くのメディアアーティストが集結している。これはなんとしても行かねば。しかし、この夏の台風や豪雨で何度も見送り、会期終盤になってようやく行くことができた。

会場に着いておどろいたのは、その規模の小ささ。1階にある吹き抜けのホワイエだけで、拍子抜けしてしまった。会場には数多くの垂れ幕が吊るされていて、メディアアーティストたちの言葉が大きく印刷されている。このテキストは、「作品の死」にまつわるアンケート回答らしい。垂れ幕は、空気の流れでわずかに動いたりよじれたりしている。数々の意味深いフレーズが、なにげなく視界に入ってくると、なんらかの信仰が迫ってくるような心持ちになる。しかしここが神聖な場所には思えず、四角い面が散らばっている無機質なバーチャル・スペースのように感じた。

もちろん展示はこれだけではない。会場の中心には「メディアアートの墓」が鎮座している。緑色した円錐状の構築物は、古墳を思い起こさせる。しかし、その山のふくらみは滑らかではなく、板を組み合わせたようでゴツゴツしている。表面は人工芝の鮮やかな緑色に覆われている。周囲の空間と同じように、構築物にも重厚な存在感はない。むしろポリゴン(多角形の面)でできた初期3DCGのように浮遊感があり、仮設テントのようにも見える。奥のほうに墓の内部につながる入口が見えた。この墓のなかが展示の本体のようだ。いくら張りぼて風とはいえ、「墓」のなかに気軽に入っていく気にはならない。気分を落ちつかせ、静かに墓参りに行くように心を入れかえる。

これは墓だと主張するモダンな立て札

入口の前には受付があり、テーブルに音声ガイドの機器が各種ならんでいる。iPadやiPod各種のほか、デジタルビデオカメラやCDウォークマン、ラジカセ、そしてテキストが印刷された紙まであった。この展覧会の音声ガイドでは、「死んだ」録音メディアを選べるのだ。いや、いまでも動作しているのだから、「死んだ」は言いすぎたかもしれない。新しいメディアに取ってかわられ、世間から見捨てられても、機械は動きつづけている。けなげでしぶといやつらだ。

受付には歴代の録音メディアがならぶ

音声ガイドとしてベストかつ常識的な選択肢は、iPadである。好きな順に聴くことができ、関連映像を見ることもできる。しかしわたしは、これから「墓参り」に向かうのにiPadは新しすぎると考え、すこしくたびれたカセットテープのウォークマンを選んだ。実のところ、ウォークマンを選んだほんとうの理由は、かつての相棒を見つけたような気分になったからだ。90年代、いつもこいつを身につけていたことを思い出した。なつかしい友を置き去りにするにはしのびない。

かつての相棒と再会する

墓の内部は、10人も入ると身動きがとれないほど狭い。ほぼ暗闇で足下がよく見えないが、地面に砂があるようだ。土のにおいはなく、合板を張った床に砂をまいているのが足裏の感触でわかる。墓のなかも、どこかチープで荘厳さはない。

墓の内壁に並んだ10の墓室には「死んだ」作品が納められている。音声ガイドのウォークマンの音質は思いのほか良好で、非常にクリアーに聴こえる。音声では、作品が死んだ理由をそれぞれの作者が語っている。しかし作家の肉声は流れてこない。アナウンサーかだれかが代読しているようだ。最後にエキソニモの声を聴いたとき、はっと気がついた。エキソニモは男女2人のユニットだ。左右のイヤホンから、男と女の声が「完全にシンクロ」してしゃべるのが耳に入ってきた。流暢にしゃべっていた声は、人間ではなく機械が合成した音声だったのだ。

音声ガイドになぜ合成音声を使っているのだろう。ここは作品の墓だから、作者の声も封印したのだろう。肉声であれば伝わる口ぶりや作者の人間味は欠落し、言葉の概念のみが鑑賞者の脳へダイレクトに伝わってくる。パイク以外の作家は存命だが、合成音声になることで肉体から解放され永遠の命を得たようだ。ふと、この合成音声が「死んだ」録音メディアに載っていることに違和感をおぼえた。カセットテープ全盛の時代には、これほど流暢にしゃべる合成音声は存在しなかったはずだ。いま体験しているこの組み合わせは、「ありえなかった過去」ともいえるし「あったかもしれない未来」ともいえる。音声ガイドを聴きながら、SF的な世界に入りこんでしまったような奇妙に感覚におそわれた。

展示されている作品が「死んだ」理由はさまざまだった。使用している機器の製造停止、時代の感覚とのずれ、アプリストアの審査基準など。日々移り変わるテクノロジーを使えば使うほど、作品の寿命はみじかい。そのはかなさを悼みながらも、音声ガイドとして動くウォークマンから、ふるいメディアが蘇生する希望も感じた。

メディアアートは死ぬのか。機能的には壊れ、やがて死んでいくのは確かだが、生まれ変わることはできそうだ。生まれ変わるといっても、たんなる作品修復ではない。新たな世代が、別のすがたにして生き返らせてくれるはずだ。メディアアートも、ウォークマンのように死にそうで死なないのだ。本展は「死」や「墓」といった重たいテーマを扱っているわりには、展示空間がやけにさっぱりしている。作品を葬っているのは演出でしかなく、ほんとうは「作品の死」を否定したいのかもしれない。

数々の工夫をこらした本展はすでに終了しているが、特設ウェブサイトにはインタビュー映像や関連エッセイなど充実した記録がアップされている。時代の変化とともに走りつづけるメディアアートに思いをはせて、墓参りのつもりで訪ねてみてはいかがだろうか。

特設ウェブサイト (rema.ycam.jp)

『エンデの遺言──根源からお金を問うこと』

これは、経済学のことはなにもわからない人間のメモです。

「地域通貨」ということばをはじめて理解したのは、IAMASでの桂英史さんの授業だった。それまで地域通貨とは、特定の地域のみで流通する通貨や商品券のようなものだろうと漠然としか理解していなかった。ところが地域通貨とは、国家が管理する貨幣とは別の体系をもった貨幣のことを指していて、そこには一定の思想性を帯びていることをはじめて知ったのだ。

いや正確には、こうした取り組みを知っていたが関心をもたなかったのだろう。なぜなら、このことを世に知らせたドキュメンタリー番組をたしかに観た記憶があるからだ。

その番組は、『エンデの遺言──根源からお金を問う』(NHK、1999年)。『はてしない物語』や『モモ』を書いたドイツの作家ミヒャエル・エンデが、「お金」について考えていて、お金を問い直す国際会議の開催を呼びかけていたという。放映当時、エンデはすでに亡くなっている。この番組では、生前のエンデに取材した音声テープを出発点に、世界のオルタナティブな通貨システムを紹介している。

放映後、番組制作者らによる同名の書籍が刊行されている。しばらく前から持っていたが、しっかり読み通したのははじめてかもしれない。

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)
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地域通貨の思想的な始祖として、ドイツの経済学者シルビオ・ゲゼルの名があげられている。ゲゼルは通貨制度「自由貨幣」を提唱した。これは時間にともなって価値が減じる貨幣で、エイジング・マネー(aging money)とか、減価する貨幣、老化する貨幣とも呼ばれている。一般的な通貨は預ければ利息がつくが、自由貨幣はその反対で保有しつづけていると価値が下がってしまう。いわばマイナスの利子がついてしまうため、貯蓄するインセンティブがなくなる。お金が滞留せずにすばやく回りはじめるため、消費が活性化するという。

20世紀初頭の大恐慌期には、国民通貨とは別に、地域や用途が限定された補完通貨や代用通貨というのが数多く生まれていたそうだ。その後も各地で自由貨幣のコンセプトをもつ通貨の事例が紹介されている。

スタンプ貨幣は、一定期間ごとに少額のスタンプ(切手のようなもの)を裏面に貼らなければならない。スタンプを貼らなければならない日に貨幣を所有したくないので、すぐに手放すことになる。

LETSや交換リングは、プラスもマイナスも許容する、全体としてはゼロになる通帳型のシステムで、コミュニティ内の「貸し借り」を可視化する試みだといえるだろう。

本書は全体として資本主義、グローバリズム批判のイデオロギー色を帯びている。ゲゼル研究会の森野榮一による章、とくに第5章は、繰り返される金融システム批判があまりに情緒的すぎて、やや胸焼けしてしまった。

欲望か倫理か

スマホが普及した現在、自由貨幣のシステムは電子的に実装すれば、一気に姿を変えるだろう。電子化すればスタンプ貨幣を現代に甦らせることもできるだろう。スタンプ貨幣はそもそもスタンプを用意して貼りつけるのが煩雑であるし、スタンプ貼付日前後の所有者間に発生する不公平を感じる。もし連続的に減価する貨幣として実装しなおすことができれば、新たなマイナス利子のお金をつくれそうだ。交換リングも仮想市場として実装できそうだ。

あらたに作るまでもなく、現在すでに電子マネーやポイント、ビットコインをはじめとする暗号通貨など現代版の「もうひとつの通貨」が多数存在している。ただしこれらの通貨は、いずれも本書の言葉でいえば、「競争セクター」にあり、「共生セクター」には属していない。資本主義のマネーが、ひとびとの欲望を駆動力にしているように、現在の電子マネーや暗号通貨も欲望によってふくらんでいる。

本書が提唱している「もう一つの通貨」は、欲望よりも倫理に訴えかけたものだ。しかし欲望と倫理を天秤にかければ、人々はたやすく欲望に落ちるのではないか。「ふるさと納税」がその好例だ。制度の趣旨に賛同するというよりも、返礼品を目当てにしている者がほとんどだ。

自由貨幣は、減価の特性に着目するよりも、共同体に着目していることから「コミュニティ通貨」という呼び名のほうがふさわしい。しかしコミュニティ通貨は使途が制限されている。いくら流通速度がはやいとはいえ、国民通貨にくらべると流動性は低いことは大きなデメリットだ。

コミュニティの経済といえば、フリマアプリ「メルカリ」の経済圏も思い浮かぶ。メルカリの世界のなかでは、メルカリ内で有効なポイントで売買できる。ポイントは、まさに特定のコミュニティでしか通用しないコミュニティ通貨である。しかしメルカリには、共同体の意識が希薄だ。検索容易な商品のカタログは充実していて、交換リングのカタログを彷彿させる。しかし出品者の顔は見えない。ユーザは匿名であり、配送すら匿名でできてしまう。ユーザ間のコミュニケーションは、値引きや配送といった取引に関わることに限定されるようにデザインされている。

メルカリポイントは換金でき、国民通貨とほぼ等価であることも重要なポイントである。だからこそ、商売にする人があらわれ、経済圏が成長した。

コミュニティ通貨とメルカリとを比較するなんて、乱暴だという意見があるだろう。前者は共同体指向なのに対し、後者は一私企業が運営する商業的サービスでしかない。しかし普及規模の差をみれば、メルカリに学ぶべきこともあるはずだ。コミュニティ通貨がフェアトレードと同じように、「現行システムへの批判」という思想でしか対抗できないとすれば、一部の人たちにとっての不満の発散でしかなく、ひろく普及することはむずかしいのだから。

河邑厚徳・グループ現代,2000,『エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』NHK出版.
河邑厚徳・グループ現代,2011,『エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと』講談社.

目次

文庫版まえがき 河邑厚徳
プロローグ 「エンデの遺言」その深い衝撃 内橋克人
第1章 エンデが考えてきたこと 河邑厚徳
第2章 エンデの蔵書から見た思索のあと 村山純子
第3章 忘れられた思想家シルビオ・ゲゼル―老化するお金の理論とその実践の歩み 森野榮一
第4章 貨幣の未来が始まった 鎌中ひとみ 村山純子
第5章 お金の常識を疑う 森野榮一
エピローグ 日本でも「お金」を問い直す気運高まる 河邑厚徳
おわりに 河邑厚徳