対等な対話

「暮しの手帖」で、アナウンサーの山根基世さんがこんなことを言っていた。

組織(NHK)を変えようとしてうまくいかなかった。トップの沽券を傷つけてはいけないということを学んだ。それで今は、「子どもの話し言葉」を教えている。

それで、大学1年生の授業で、作品制作のアドバイスをして回っていたことを思い出した。ある女子学生が、「わたしはそうは思いません」とぴしゃりと反論してきた。あまりのストレートな反応に、こちらはひるんでしまった。いや、アドバイスを拒否されたくらいで驚くのはおかしくて、そういう率直な物言いこそ大事にしなければいけない。そう思いなおして、私のアドバイスは撤回し、彼女の想いを尊重することにした。

ふだん私たちは、教師など上の立場の人に言われたことに、表立って反旗を翻したりはしない。波風立てることを嫌って、受け入れる。納得いかなくても、せいぜい影で不満を漏らすだけだ。そういう儒教的な関係に慣れていると、対等な関係で対話をすることは難しい。

だから、さあ今から対話しましょう、と言われてもできない。多様な相手と対等な対話できるようになるには、若いころからそういう経験を積んでおくことが大切なのだろう。あの学生もきっと、素直に自分の思いを相手にぶつけることができる環境で育ってきたに違いない。

対等な対話ができる人が増えたら、旧態依然とした社会や組織は変わっていくだろう。いや、組織に変わる気がなければ、そういう若い人は押さえつけられてしまうだけかもしれない。だとしたら、彼ら・彼女らは、そんな組織を離れてしまうだろう。だから、古い組織と新しい組織が併存していて軋轢が生まれている。対等な関係、対等な対話を大切にする価値観の人たちが、新しい組織を選択すれば、おのずと古い組織は縮小せざるをえないだろう。

(752字・15分)

勉強術の本を読んで悲しくなった

ある勉強術にかんする本をよんだ。ふだん手にするたぐいの本ではないけれど、なぜかすすめられたので。

かんじんの勉強術に関する記述は数ページほどしかなく、ほとんどは筆者の半生をふりかえった自伝だった。

著者は、模試全国トップ、筑波大付属高校、東京大学法学部首席卒業、在学中に司法試験合格など輝かしい成績をほこる。塾に行かずに独習でたどりついたという。ま、こういう成功者の本はなんの参考にもならないけど、と読んでいたら、参考にならないどころか、ひどく悲しくなった。

著者は、じぶんは天才ではなく努力してきたのだ、勉強は楽しくないのだという。勉強をつづける理由は、周囲から「勉強ができる子」と呼ばれたイメージを壊したくない、一人だけ不合格になりたくない、などなど。試験に落ちてしまう恐怖、友達と遊んで時間を無駄にしたとふりかえる罪悪感を味わいたくないために、がむしゃらに勉強する。

不安にかられて勉強するという経験は確かに誰でもあるだろう。でも、それだけで一冊の本にしてしまう厚顔さにあきれてしまった。恐怖と罪悪感という、ネガティブな力によって駆動される勉強って悲しくないだろうか。そんなに必死に勉強して、何になりたいのだろう。

著者の生き方は、学歴や資格を得ることだけが目的になっているようだ。仕事をはじめて、他者との共同作業の大変さを嘆き、答えのない課題の取り組みに戸惑うさまを吐露している。そうした社会の「現実」に気がつくのがあまりにおそくないだろうか。

高偏差値のエリートって実はこういう人が多いのだとしたら、この先が不安になった。あたえられた課題で高得点を稼ぐ能力がきわめて高かったとしても、社会をよくするための活動にそれほど関心がなさそうだから。

どうして私はこの本をよんでこんなに悲しくなったのだろう。エリートへのひがみじゃない。ものごとをはかる物差しのバリエーションが少ないことへの憤りなのかもしれない。

2020年さいごの買い物

家族で共有しているスマホアプリの買い物リストに「卵カッター」とある。はて、お正月料理に必要なものかと思って買ってきた。

すると家人から「大晦日に卵カッター買ってきた? そんなの使うわけないでしょ」と一蹴された。

どうやら「たまご」の音声入力を誤認識したアレクサのしわざのようだ。こいつはたまにとんでもない買い物を要求する。2020年最後の日にやられてしまった。

劇作家の悲鳴

新型コロナウイルス感染症の影響で劇場が閉まり公演が中止になった。この事態を受けた劇作家たちの発言が物議をかもしている。非難したい人びとが失言に乗じて火をつけるので、炎上しているように見える。

小さな劇団は零細産業であり悲鳴をあげるのは当然だ。しかし他業種と比較をしながら窮状を訴えたことで反発をくらった。「小演劇はスポーツイベントとは規模が違う」、「製造業のように増産できない」。比較された側も大きな被害を受けているので、このような言い回しは妥当ではなかった。

ただ彼ら自身がふだんから社会的に不遇な立場に置かれているとかんがえているからこそ、そうした言動にむすびついてしまったのではないか(人文系研究者の怨嗟の声に似たものを感じる)。ただ、彼らの言い方に不適当だった部分はあったからといって、悲鳴をあげること自体を封じようとしたり、人格を批判しようとする動きは許されない。

ある劇作家が過去に政策に介入したことを批判した記事をよんだ。みずからの業界に利益を誘導するロビー活動はどの業界でもあるはずだ。「お肉券」の構図とそう変わりはない。もし舞台芸術だけに手厚い支援が実現していたとしても、劇作家ひとりの問題ではなく、バランスのとれた政策に落とし込めなかった政治家の責任だ。

ところで、ロビー活動の面のバランスはどうなのだろう。芸術家のロビー活動が演劇に偏っているかどうかはよく知らない。政治にアクセスする芸術関係者が幅広い分野にまたがったほうがよいのは確かだ。そういえば文化庁長官は工芸家だが……。

(646字・30分)

「詩的な計算」って何? SFPC集中ワークショップに参加して

この投稿は、potariにも掲載しています。

「SFPC Summer 2019 in Yamaguchi」に参加し、いろいろな衝撃を受けたことをまとめておきたく、アート情報サイト「potari」に記事を書きました。幅ひろい人に読んでもらえるように、テクノロジーや人物などの固有名詞にはふれていません。1年ぶりの記事が、またYCAMの話題でした。


2019年9月4日から11日まで、山口情報芸術センター[YCAM]で集中ワークショップ「SFPC Summer 2019 in Yamaguchi」が開催されました。SFPCとは、ニューヨークでアーティストたちが設立した小さな学校の名前です。この学校では10週間のカリキュラムを提供していて、コンピュータを用いた表現方法を学ぶことができます。このユニークな教育プログラムはひろく知られ、日本をふくむ各国から受講生が集まっています。そのSFPCが米国外ではじめて開催すると知って参加を申し込んだところ。幸運にもこの集中ワークショップに参加することができました。

SFPCの正式名称は「School for Poetic Computation」。「ポエティック・コンピュテーションのための学校」という奇妙な名前です。ポエティック・コンピュテーションを日本語にすれば「詩的な計算」と言えばいいでしょうか。いったい何なのかとても気になります。ところがワークショップに参加しても答えはありませんでした。この学校ではポエティック・コンピュテーションが何かを定義しないというのです。つまり、このキーワードが気になったら、一人ひとりが探究すればよいのでした。

ただ、ワークショップを通じて「詩的な計算」がしめしている方向性は見えてきました。詩的というのは、商業的で実務的な活動に対するアンチテーゼだということです。詩をかくことは、効率化や収益を求める経済活動とはほど遠いきわめて個人的な創造活動です。コンピュータを用いた表現といえば、ゲームや広告、デザインといった、いわゆる「クリエイティブ」と呼ばれる業界が思い浮かびます。しかし本来のクリエイティブとはもっと自由な行為で、経済的業界の枠内におさまるものではないはずです。今回のワークショップのテーマは、「ギフトとしてのテクノロジー」を考えることでした。コンピュータを用いた表現でも、他人を思いやったり絆を深めるようなものをつくれるはずという信念がこめられています。

ワークショップに参加した生徒20人は、できるだけ多様なバックグラウンドの人が集まるように選考されています。年代や職業、性別はもちろん、出身国もさまざま。日本、中国、韓国、タイ、オーストラリア、カタール、スイスなど、幅広い地域から集まりました。最初のオリエンテーションでは、わたしたち生徒はそれぞれ違うところからやってきた「文化大使」であり、アーティストであると説明されます。お互いの違いを尊重し、ともに学ぶコミュニティの成員としてふるまうことの大切さをしっかり意識づけられる導入でした。

およそ1週間のプログラムには、SFPCとYCAMの講師陣による授業がみっしりつまっています。授業のテーマは、電子工作、プログラミング、ゲームデザイン、折り紙、バイオテクノロジー、即興ダンスなどさまざまです。どれもスキルを得るための授業ではなく、手や身体を動かしながら考えさせるものばかりでした。1日の終わりには、生徒と講師、スタッフみんなでご飯を一緒にたべます(ファミリーディナー)。週末は遠足にでかけて、多くの時間をともにしながら自然と心地よいコミュニティができあがります。最終日のファイナル・プレゼンテーションでは、生徒一人ひとりがワークショップをふりかえり、詩的なプロジェクトやパフォーマンスなどをお披露目し、来場者と意見を交わして終了しました。

このところプログラミングを学べる教室があちこちにできています。プログラミング教育が台頭している背景には、コンピュータを理解することが仕事を得る上で不可欠だとする実利的な思惑が見え隠れします。しかし「詩的な計算」を掲げるSFPCのように、コンピュータを用いた表現の可能性や社会との関係を根本から考えられるところはほとんどありません。

大学教育にかかわるわたしにとって、生徒になってSFPCに飛びこんだことはおおきな収穫でした。SFPCは既存の教育制度の枠外にある私塾的な学校だからできることかもしれませんが、安心できる自律的な学びの場が実現していました。SFPCの講師陣はつねに穏やかな笑顔で授業を進行し、生徒の活動を全面的にサポートしてくれます。もちろん生徒同士も助けあいます。ここでは、生徒が評価や競争への不安にさいなまれたり、心理的重圧にさらされることがありません。日ごろの教育現場に比べるとまぶしいくらいのユートピアでした。ここでは教育方法の根幹に、他者への信頼や寛大な精神が宿っていることがひしひしと伝わってきます。今回の参加経験が、これからの自分の活動に影響することは間違いありません。SFPCの教育方法や思想は、わたしだけでなく生徒それぞれのホームグラウンドを通じて着実にひろがっていくはずです。

今回のワークショップを企画したYCAMでは、評価がさだまらない実験的取り組みをたくさん実施しています。いつも面白いプログラムが開催されていますので、見に行くことをおすすめします。最後に、このすばらしい機会を実現し、全体を通じてきめ細かくサポートしていただいたYCAMスタッフのみなさんに深く感謝します。

撮影:竹久直樹
写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]