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勉強術の本を読んで悲しくなった

ある勉強術にかんする本をよんだ。ふだん手にするたぐいの本ではないけれど、なぜかすすめられたので。

かんじんの勉強術に関する記述は数ページほどしかなく、ほとんどは筆者の半生をふりかった自伝だった。

著者は、模試全国トップ、筑波大付属高校、東京大学法学部首席卒業、在学中に司法試験合格など輝かしい成績をほこる。塾に行かずに独習でたどりついたという。ま、こういう成功者の本はなんの参考にもならないけど、と読んでいたら、参考にならないどころか、ひどく悲しくなった。

著者は、じぶんは天才ではなく努力してきたのだ、勉強は楽しくないのだという。勉強をつづける理由は、周囲から「勉強ができる子」と呼ばれたイメージを壊したくない、一人だけ不合格になりたくない、などなど。試験に落ちてしまう恐怖、友達と遊んで時間を無駄にしたとふりかえる罪悪感を味わいたくないために、がむしゃらに勉強する。

不安にかられて勉強するという経験は確かに誰でもあるだろう。でも、それだけで一冊の本にしてしまう厚顔さにあきれてしまった。恐怖と罪悪感という、ネガティブな力によって駆動される勉強って悲しくないだろうか。そんなに必死に勉強して、何になりたいのだろう。

著者の生き方は、学歴や資格を得ることだけが目的になっているようだ。仕事をはじめて、他者との共同作業の大変さを嘆き、答えのない課題の取り組みに戸惑うさまを吐露している。そうした社会の「現実」に気がつくのがあまりにおそくないだろうか。

高偏差値のエリートって実はこういう人が多いのだとしたら、この先が不安になった。あたえられた課題で高得点を稼ぐ能力がきわめて高かったとしても、社会をよくするための活動にそれほど関心がなさそうだから。

どうして私はこの本をよんでこんなに悲しくなったのだろう。エリートへのひがみじゃない。ものごとをはかる物差しのバリエーションが少ないことへの憤りなのかもしれない。

2020年さいごの買い物

家族で共有しているスマホアプリの買い物リストに「卵カッター」とある。はて、お正月料理に必要なものかと思って買ってきた。

すると家人から「大晦日に卵カッター買ってきた? そんなの使うわけないでしょ」と一蹴された。

どうやら「たまご」の音声入力を誤認識したアレクサのしわざのようだ。こいつはたまにとんでもない買い物を要求する。2020年最後の日にやられてしまった。

若林恵,2019,『NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』黒鳥社.

SNSで絶賛されていたのをみて読んでみたけれど、ノレなかった。その分野のアドバイザーやコンサルになりたい人の講演(ポジショントーク)を聞かされたような気分だ。

本書が謳うのは、行政府をデジタルテクノロジーで変革することだ。デジタルトランスフォーメーションの意義はわかる。わかるのだけれど、やけにポップな語り口で事例をくりだすばかりで、パッションを感じなかった。なぜだろうか。著者がオルタナティブとDIYというキーワードの指向性が好きなのはわかるが、肝心の「公共性」へのまなざしを感じなかったからだ。たとえば、「インクルージョン」という聞こえのよいキーワードをつかって説明しながら、現実に困っている人や弱い人の描写やそうした人たちへの共感がほとんど感じられなかった。

本書の大部分は「仮想雑談」という対談形式をとっている。ところが聞き手の発言の大部分が、「ふむ」、「なるほど」、「おもしろい」といった合いの手に終始していて対話になっていない。聞き手の発言はほとんど1行のみ。前後の空行含めて3行のスペースができあがってしまい、じつにもったいない。ページ稼ぎかと邪推してしまう。

紹介される事例に、サイトで読んだ、ニュースで見た、という伝聞情報が多くて途中でうんざりしてきて閉じてしまった。これは本のかたちをしているけれど、首尾一貫した流れはなく、断片的な情報をかき集めたものだ。読者は、大きな箇条書きの集合を見せられている。マクルーハンのように断片的な書物があってもよい。だけど、本書の内容は後世に残る箴言集にはほど遠い。わたしが本に期待する水準の情報ではなかった。

もちろん一つひとつのトピックは十分に興味深いし、深く知りたくなることもあった。小さい政府/大きい政府の議論は、いまなら持続化給付金委託事業の問題や、リモートワーク時代の行政手続きを想起させる。公共的事業の民営化・市場化とソーシャルセクターのバランスを考える導入のテキストにはなるかもしれない。

最後に著者が、これはあくまでムックだ、雑誌だと弁解しているのは、すこし後ろめたさがあるのではないだろうか。たしかに一人の編集長による雑誌として読めば悪くはなかったのかもしれない。それにしては装丁をこりすぎたのか高価すぎる。
(945文字・30min)

田中辰雄・浜屋敏,2019,『ネットは社会を分断しない』KADOKAWA.

ネットによって人びとの政治傾向は分極化している。本書はそうした通説を事実ではないと指摘する。オンラインで約10万人を対象にした大規模調査の分析によると、ネットは社会は分断していないのだと。

本書の構成はつぎのとおりだ。はじめに、ネット草創期にいだかれた社会をよくするという期待と現在の絶望感を描く。オンライン調査の分析から、ネットが社会を分断するというネット原因説を解説する。しかし第3章からは、その因果関係が反対であることを明らかにし、表題の結論を導きだす。データから論理的に結論をひきだす過程はあざやかで読みやすい。本書は政治的には一貫して中立な立場を守っていて、保守−リベラルの分極度を中心で折り返して重ねる分析手法に驚かされた。

本書の結論はつぎのとおりだ。「ソーシャルメディアのユーザが接する相手の4割は自分と異なる意見の人であり、マスメディアを通じるよりむしろ多様な意見に接している。そのためソーシャルメディアを利用し始めた人の政治傾向は分極化せず、むしろ穏健化する。実際、ネットに親しんだ若年層ほど穏健化しており、分断傾向はない。」(p.198)

本書の分析によると、ネットでは選択関接触よりも、むしろクロス接触(異なる意見への接触)がそれなりに大きい。新聞や雑誌などにくらべても選択関接触は低い。この原因には次の2点があげられる。第一にネットの情報取得のコストが安いこと、第二にソーシャルメディアの設計が炎上事件のように極端な意見が誇張されて見えてしまうことである。

著者のひとり、田中らによる『ネット炎上の研究』と同様に、本書が人びとの政治傾向やネットでの行動の関連を明らかにしていてとても興味深い。政治思想については直接ふれず、特定の政治傾向への好悪を持たないところが本書のよいところだ。しかし、「分断しない」、「穏健化する」という結論を強調するあまり見落としている点もあるのでないかと心配になる。

人びとはクロス接触により穏健化するとして、つぎのような展開が考えられると述べている。「産経新聞とそこまで言って委員会NPだけを見ていた人がネットを始めてリベラルな人の声を直接聞き、彼らの多くが売国や反日ではなく、ただ人類普遍の理想を追求しようとする人々であることを理解する。朝日新聞と報道ステーションが情報源だった人がツイッターとフェイスブックを始めて、保守側の意見に直に接し、彼らの多くが国家主義者でも既得権益擁護者でもなく、ただ歴史的経験を重視し先人の知恵を尊ぶ人々であることを知る」(p.192)

また、若年層が分極化しないことはつぎのことから当然の結果だと述べている。「若年層は最初からネットから情報を得ており、対立する意見の両方に生で接してきた。それゆえそれらを比較考量することができるために、片方の極端に走ることなく、穏健な意見を持つことになったと考えられる。」(同上)

こうした考察は、今回のアンケート調査の結果のみから導き出せるとはおもえず唐突な印象を受けた。すくなくともわたしには、保守とリベラルの相互理解がネットのクロス接触を通じて生まれているとは思えない。若年層の政治傾向が穏健である理由が、双方の意見に触れているからとも思えない。身近に感じていることは、高齢者がネットの意見に感化されて強固に保守化する事例だったり、若年層というかネットのヘビーユーザはネット上の意見には誇張や虚偽が多いことを体得していて情報を鵜呑みにしないリテラシーをもっていることなどだ。

本書の弱みは、政治思想を単純化しすぎていることだ。保守-リベラルという単純な対立軸で分析するのが妥当なのか。フォロワーの多い「有名論客」ばかりを対象にすることが妥当なのか。発行部数が凋落する新聞や雑誌とネットを比較することが妥当なのかなど、分析の設問にも工夫の余地があるのかもしれない。

とはいえ本書の功績は大きく、このような大規模調査を継続することができれば、さらに多くのことが明らかになることは間違いないだろう。

現在のソーシャルメディアでは極端な意見が横行している。そのことによって穏健な人々がこうむる心理的なストレスはけっして無視できないだろう。こうしたオンラインコミュニケーションのあらわれの設計にこそ大きな責任がありそうな気がした。

(1825字・40min)

金子郁容,1992,『ボランティア―もうひとつの情報社会』岩波書店.

前半は、自発的に動く人の事例をあげながら、ボランティアという見返りを期待しない行為から、思いがけず平等な関係性がうまれることを解説する。

とりあげる事例は、在宅ケアシステム、障害者の「自立生活」、v切符制度、PDSコミュニティなど幅広い。このうちいくつかの用語は、いまでは聞くことがなくなった。

後半は、やや学問的な議論に入る。ハンガリー生まれの経済学者カール・ポランニーによる経済活動の批判的検討。イヴァン・イリイチによる「ヴァナキュラー」、「ジェンダー」というキーワード。マルセル・モースの『贈与論』。駆け足で解説されるのでつかみづらいが、現在の経済システム以外のオルタナティブがあるのではという問題提起だと解釈した。

最後に「もうひとつの情報社会」というキーワードが提示される。情報という概念が従来の経済システムの価値観を見直すと主張している。しかしこの議論での「情報」は、希少性も所有権もない無透明なデジタルデータのことを指しているようで、しっくりこなかった。

本書は、発行された1990年代前半の時代背景を想像しながら読む必要がある。インターネット前夜、パソコン通信のユーザが増え、好調な日本経済を背景に大手企業がボランティアを推奨しはじめた。情報という概念に社会変革の希望を託すことができた時代だったのだ。

情緒的な書きぶりの当時の希望的観測が、いまどうなったのか。しずかに答えあわせするとちょっぴり苦い味がした。

(670字・30min)