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ブログを引っ込める

このサイトのブログの場所を奥に引っ込めた。
表玄関は、lab.sugimototatsuo.comのほうにして、こちらは私的なメモも置こうとおもう。

ブログといえば、ブログサービスを使うのがいつの間にか主流になった。
わたしは、はてなブログもMediumもLINEブログもアカウントだけで放置だ。
なぜかといえば、ブログサービスを使わないブログこそ、「自分のメディア」だと思っているから。
RSSリーダーもすたれてしまったので個人のブログに固定読者はいなくなった。
それでもSNSや検索でたどりつくセレンディピティはいまでも残っている。
といっても、まとめサイトやキュレーションという悪質なノイズに検索結果が汚染され、個人の細々としたサイトが埋もれているのは由々しき事態である。

会ったことのない人、会ってみたい人、考えが似ている人、私生活を赤裸々につづる人、そういう人たちのブログをよく読んでいた。
10年以上まえのインターネットをふと思いだした。

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Facebookはタイムライン・アルゴリズムを公開すべき

さいきんFacebookのタイムラインがおかしい気がする。いや、まえからずいぶんおかしいのだけれど。このところわたしの挙動の変化はこうだ。「知り合い」を選択しているような「親しくない人」の投稿がよく表示されるようになった。

いったいどんな計算の結果で、このようなタイムラインになっているのか、一介のユーザには皆目わからない。Facebookはユーザのタイムラインを制御しているが、その内実は闇の中だ。Facebookは、2012年にユーザの感情操作実験を秘密裏に実施し、2014年に物議をかもしたことがあった。いまの違和感も、A/Bテストや秘密の心理実験の対象者になっているのが原因かもしれないと、疑心暗鬼にならざるをえない。

このところFacebookは、機会があるたびに「フィルター・バブル」を作り出していないと主張している。マーク・ザッカーバーグは、次のように弁解する。

「Facebook上の最大のフィルターは、ユーザーが意に沿わないコンテンツをクリックしないことだ。ニュースフィードには、意に沿わないコンテンツも流れるし、自分とは異なる考えや宗教を持つ友達もいる」、つまりフィルターバブルの中にも対立する考え方が入ってくるが、それをユーザーはクリックしないのだと主張しました。
このクリックしない率は相当高くてびっくりするぐらいで、「それをどうしたらいいか私にもまだ分からないが、何とかしなければならないと強く思っている」とのことです。
トランプ勝利で浮かび上がるSNSの問題点 – ITmedia PC USER

そうFacebookは、ユーザと異なる主義主張のコンテンツのエンゲージ(表示時間、いいね、コメント、シェア、クリック)率を計測している。それもきっと利用規約のうちだろう。リテラシーのある多くのユーザも承知のうちだ。だから異なる考えの主のリンクをクリックするなんて危険なことはやらない。うかつにクリックすると、自分のタイムラインが偏ってしまうかもしれないのだから。ユーザは、目に見えない管理者の挙動にびくびくしながら使っている。

それがいまのFacebook最大の脅威だ。Facebookは全体社会のビッグ・ブラザーになっている。

Facebookのタイムライン・アルゴリズムは複雑で、おそらく人間の目でみて理解できるものにはなっていないだろう。それでもFacebookはそのメカニズムを公開しユーザに説明するべきだろう。おそらく無数のA/Bテストが走っているのだろうが、そうした実験の対象者なのかどうかも明らかにしてほしい。それらができなくても、ナチュラルな(制御なしの)タイムラインの表示オプションがあれば、何もできないユーザとしては、かなり気分が落ちつくのだけれど。

ふたたび熊本

2016年10月に熊本へ。熊本地震から半年。

雨がふるなか熊本市中央区の住宅街を散歩した。応急危険度判定の紙が貼ってある。ところどころの家の屋根には、ブルーシート。道をあるけば、黄色い「要注意」や、赤い「危険」の紙が貼ってある家屋やマンションがそれなりにある。

赤紙が貼られたある家では美容室が営まれていて、屋内ではいつものように仕事をされていた。赤紙ははがせないのだろう。自宅に「危険」だとラベルを貼られてしまう気持ちを考えるといたたまれなくなる。半年たって熊本市内がこのような状況だったとは思いがいたらなかった。

震源にちかい益城町では、がれきが積まれたままで震災直後とほどんど変化していないそうだ。時間がたつにつれ熊本地震は風化しつつあるが、回復までには相当の時間がかかりそうだ。

(今回も写真を撮る気にはならなかった)

クリエイティブ自給率

ただの思いつきである。

とある照明「A」がほしいとおもっていた。ヨーロッパのデザイナーのものだ。
さいきん別の照明「B」の情報をもらって、これもいいなとおもった。日本のデザイナーのものだ。

ここで、AではなくBを買ったら、わが家の「クリエイティブ自給率」が上がる、と考えてみる。
今日、多国籍に活躍する人も企業も多いのに、デザイナーの国籍を云々するなんて、時代錯誤のナショナリズムも甚だしいと非難する向きもあろう。

たださいきん、この国でクリエイティブで食べていける人はどうやったら増えるのだろうかとぼんやり考えることがある。
世界中にクリエイティブ従事者はいるけれど、それを生業にしている「隣人」が多ければ多いほど、生活が豊かになりそうだ。

たとえば、海外で製造された家具ではなく、隣町の職人が仕立てた家具を買う。
クリエイティブ自給率が上がれば、国内クリエイターの収入は上がる。
兼業作家が専業作家になれる。ますますよい創作物が作り出される。
消費する瞬間だけを切り取れば感覚的な選択にすぎないが、長期的には日常生活にはねかえってくるのではないだろうか。

資源が限られている国だからエネルギー自給率は低くてもやむをえない。
でもクリエイティブ自給率をみずから下げなくてもよいのではないか。
文化立国、クリエイティブ立国だと息巻いている人こそ、自給率向上に貢献してほしいものだ。

もちろん単純にクリエイティブ自給率が高ければいいとはおもわない。
価格、品質、デザインなど多くの要素が絡まっている。
答えは出ない。
けれども、こういう物差しを頭の中に入れておいてもいいかもしれない。

職人の一人息子

とある研修で、池田賢市さんの講演をきいた。

数百人の聴衆が集まる大きな催しだった。しかし、私を含め聴衆のほとんどは研修目的で、非自発的に来ている。そんな冷めた場で講演がはじまった。

概念的な内容が中心の前半に対し、後半はずいぶんとプライベートな話だった。それも幼少期から青年期までの、さまざまなエピソードで構成され、ディテールがしっかりしている。

池田さんは、革靴職人の父の一人息子。

自宅の工場で早朝から深夜まで働き、父が寝ている姿を見たことがない。
夜はテレビのプロレス中継をみて午後8時48分に仕事場に戻る。試合がのびると、父に結果を伝えにいった。
靴一足仕上げて300円。
なかなか下水道が整備されない地区だった。
ドブの上に住んでいる同級生がいた。
家族の代筆をしていた。
鬼退治の昔話をみて、「鬼を退治するなんて。何か悪いことしたのか」と父が言った。
父は、ひと月の収入を茶の間のコタツの上に広げてみせた。父に「わぁすごい」と言った。
親に彫刻刀を買ってと言えなかった。片時も持参物のことを忘れてはいなかったが、学校では「忘れ物」が多いとカウントされた。
チラシの裏に英語の宿題を書いて提出した。先生は、「これでいいのだ」と(褒めるのではなく)認めてくれた。
母のダスキンの集金を手伝っていた。こどもが行けば払ってくれるから。
大学受験の情報がなく、社会学科を受けるために社会学の本を読みあさった。
などなど。

先生の一言で救われたり反感を覚えたり。
親子の互いのささいな一言の思い出が、家族を保ってきたことがよくわかる。

自営業者の子として、胸に迫るものがあった。

どのような境遇のこどもでも、望めば大学進学できる社会でありますように。