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余計なお世話の日

子のメガネをつくりに、眼鏡店へ処方箋をもって家族で出かけた。

その店は、地域に古くからある眼鏡専門店だ。眼科医によれば保証が長くおすすめらしい。Googleマップの口コミでは、接客が丁寧だとずいぶん評判がよい。

たしかに丁寧な接客だった。物腰の柔らかい初老の店員は、あれこれ試す私たちを辛抱づよく見まもっていた。商品を決めたら、カウンターへ案内された。そこで説明を受けたのが、眼鏡店ではお決まりの、レンズのバリエーションの紹介とグレードアップの勧めだ。ベーシックなものが8,000円台で、次に安い非球面・UVカットレンズは16,000円台だった。最高グレードは3万円台だったかな。差額の大きい価格表だった。

まだ度は強くないのでベーシックのレンズにする。店員は、やや意外そうな顔を見せて、妙な間を空ける。「度数変更の保証はついていますけど、同じグレードのレンズにしか交換できませんよ」と釘を刺してくる。かまわない。店員は、内ポケットから小さな電卓をとりだし、紙片にフレームとレンズの価格の合計を書きこんだ。そして、眼科医の処方箋持参の割引として、それなりに大きい金額が引かれる。合計31,800円。割引メニューは明示されていないので、算定の根拠がわからない。定価があってないような世界だ。

眼鏡の仕上がりは数日後になるという。急いではいないので、来週末に引き取りに来ることにした。ここで、若手の店員がわざとらしく割り込んできた。

「もしかして、お急ぎですか。いま調べたところ、ひとつ上のグレードのレンズはちょうど在庫がありました。それでよければ、30分でお作りできますので、この場でお持ち帰りいただけますよ。お値段は、割引して35,000円にさせていただきます」

もちろん断った。なんという白々しいウソで固めたセールストークをするのだろう。そもそも、私たちは急いでいないのに、余計なお世話だ。この店はこんな不誠実な手を使ってまで客単価を上げたいのかと驚いた。客を騙すようなあこぎなことをする店とは思っていなかったので、余計に裏切られたような気分になる。割引額も明朗ではなく、不信感が増す。店内で怒りの声をあげそうになったが、他の客もいるので口をつぐんだ。気分的にはキャンセルしたいが、もう注文した後なのであきらめた。

店を出てから、妻にそのことをいうと、いまからキャンセルするといって店に電話してくれた。電話をとった店員は、理由も訊かずにキャンセルを受け入れたという。妻はこんなことを言う。

「あなたの思ったことは正しいから、店内で反論すればよかったんじゃない?」

結局、チェーンメガネ店で、3分の1の値段のメガネを即日つくってもらった。こちらの接客も丁寧だった。

さて、これも同じ日の出来事である。家族で、ちょっとした観光地を訪ねた。道中で、父親と2歳くらいの小さな女の子にすれちがった。女の子は、歩きながら大きな串団子をほおばっていた。妻は、「幼児割りばし死亡事件」を思い出し、女の子の父親に近づいて、くれぐれも注意してほしいとわざわざ言っていた。

妻は、見て見ぬふりはできなかったようで、「わたしも、ついにおせっかいおばさんになってしまったわ」と笑う。彼女の行動も眼鏡店の店員とおなじく、余計なお世話だったかもしれない。しかし妻の忠告は正直な正義感によるもので、嘘偽りはない。女の子の父親にも感謝されたようなのでよかった。
(1302文字・29分)

工藤強勝さんのこと

グラフィックデザイナーの工藤強勝さんは、わたしにとっては雲の上の存在だ。数々の装幀された本やデザイン雑誌を通じて、その名前は私の頭に刻まれていた。

2015年の夏、北海道で工藤強勝さんにお会いする機会にめぐまれた。均整のとれたタイポグラフィの印象から、ストイックで気難しい方だろうと緊張した。ところが、お話すると、まったく気さくで陽気な人だった。もちろん仕事に対しては厳しいだろうが、オフのときまで同じとはかぎらない。わずかな時間で、そのギャップとお人柄にすっかり魅了された。

当時すでに退職されていた首都大学東京のことをうかがった。それから、工藤強勝さんのご子息と、大学院のゼミで一緒だったことがわかり、ふたりとも驚いた。2019年の秋に、わたしが首都大学東京に異動することになるとは、その頃にはまったく予想もしていなかった。

またお会いしたい方でした。ご冥福をおいのりします。合掌。(400字・17分)

木下斉,2015,『稼ぐまちが地方を変える 誰も言わなかった10の鉄則』NHK出版.
[ISBN: 9784140884607]

本書は、経営的な視点でまちを経営するという、民間中心で取り組む「まちづくり」を提唱する。

はじめに著者は、「まちづくり」の原体験を振りかえる。高校在学中から早稲田商店会の活動に参加し、全国の商店街が出資した会社の社長になる。しかし業績は伸びず、株主の要望は多くうまくいかず挫折する。学生時代に視察したアメリカでは、不動産オーナーが「自分の資産価値を高めるため」に地域に投資をしていたり、地域の親たちが小学校の校庭づくりを手伝っていたりする。こうした経験から、経営視点からまちづくりに再び挑戦することになったという。

著者が携わった熊本城東マネジメントなどの実践事例が紹介される。熊本では、事業ゴミ回収業者の契約にまとめてコストを引き下げた。コスト削減分の一部を地域に投資に回しているという。著者が提案するまちづくりは明快だ。当事者が、自分の責任で、小さくはじめればよいのだと。たしかに経営的な視点ではもっともなことなのに、こうしたことが「まちづくり」だと、あまり意識されていなかったということだろう。

本書のもう一つの軸は、行政、補助金に対する痛烈な批判だ。行政や補助金に頼った「まちづくり」がはびこっていて、うまくいっていない現状はたしかにあるだろう。しかし事業のスケールによっては、行政や補助金も有効な場面もあるのではないか。だが本書では、行政や役人憎しの言葉がちりばめられていて、やや閉口した。とはいえ、本書を読んで勇気づけられて、自分のまちづくりをはじめる人もいるだろう。わたしは不動産オーナーではないので、その役割では経営的なまちの出資者にはなれないが、住民としては何ができるだろうか。(804文字・20分)

対等な対話

「暮しの手帖」で、アナウンサーの山根基世さんがこんなことを言っていた。

組織(NHK)を変えようとしてうまくいかなかった。トップの沽券を傷つけてはいけないということを学んだ。それで今は、「子どもの話し言葉」を教えている。

それで、大学1年生の授業で、作品制作のアドバイスをして回っていたことを思い出した。ある女子学生が、「わたしはそうは思いません」とぴしゃりと反論してきた。あまりのストレートな反応に、こちらはひるんでしまった。いや、アドバイスを拒否されたくらいで驚くのはおかしくて、そういう率直な物言いこそ大事にしなければいけない。そう思いなおして、私のアドバイスは撤回し、彼女の想いを尊重することにした。

ふだん私たちは、教師など上の立場の人に言われたことに、表立って反旗を翻したりはしない。波風立てることを嫌って、受け入れる。納得いかなくても、せいぜい影で不満を漏らすだけだ。そういう儒教的な関係に慣れていると、対等な関係で対話をすることは難しい。

だから、さあ今から対話しましょう、と言われてもできない。多様な相手と対等な対話できるようになるには、若いころからそういう経験を積んでおくことが大切なのだろう。あの学生もきっと、素直に自分の思いを相手にぶつけることができる環境で育ってきたに違いない。

対等な対話ができる人が増えたら、旧態依然とした社会や組織は変わっていくだろう。いや、組織に変わる気がなければ、そういう若い人は押さえつけられてしまうだけかもしれない。だとしたら、彼ら・彼女らは、そんな組織を離れてしまうだろう。だから、古い組織と新しい組織が併存していて軋轢が生まれている。対等な関係、対等な対話を大切にする価値観の人たちが、新しい組織を選択すれば、おのずと古い組織は縮小せざるをえないだろう。

(752字・15分)

勉強術の本を読んで悲しくなった

ある勉強術にかんする本をよんだ。ふだん手にするたぐいの本ではないけれど、なぜかすすめられたので。

かんじんの勉強術に関する記述は数ページほどしかなく、ほとんどは筆者の半生をふりかえった自伝だった。

著者は、模試全国トップ、筑波大付属高校、東京大学法学部首席卒業、在学中に司法試験合格など輝かしい成績をほこる。塾に行かずに独習でたどりついたという。ま、こういう成功者の本はなんの参考にもならないけど、と読んでいたら、参考にならないどころか、ひどく悲しくなった。

著者は、じぶんは天才ではなく努力してきたのだ、勉強は楽しくないのだという。勉強をつづける理由は、周囲から「勉強ができる子」と呼ばれたイメージを壊したくない、一人だけ不合格になりたくない、などなど。試験に落ちてしまう恐怖、友達と遊んで時間を無駄にしたとふりかえる罪悪感を味わいたくないために、がむしゃらに勉強する。

不安にかられて勉強するという経験は確かに誰でもあるだろう。でも、それだけで一冊の本にしてしまう厚顔さにあきれてしまった。恐怖と罪悪感という、ネガティブな力によって駆動される勉強って悲しくないだろうか。そんなに必死に勉強して、何になりたいのだろう。

著者の生き方は、学歴や資格を得ることだけが目的になっているようだ。仕事をはじめて、他者との共同作業の大変さを嘆き、答えのない課題の取り組みに戸惑うさまを吐露している。そうした社会の「現実」に気がつくのがあまりにおそくないだろうか。

高偏差値のエリートって実はこういう人が多いのだとしたら、この先が不安になった。あたえられた課題で高得点を稼ぐ能力がきわめて高かったとしても、社会をよくするための活動にそれほど関心がなさそうだから。

どうして私はこの本をよんでこんなに悲しくなったのだろう。エリートへのひがみじゃない。ものごとをはかる物差しのバリエーションが少ないことへの憤りなのかもしれない。