勉強術の本を読んで悲しくなった


ある勉強術にかんする本をよんだ。ふだん手にするたぐいの本ではないけれど、なぜかすすめられたので。

かんじんの勉強術に関する記述は数ページほどしかなく、ほとんどは筆者の半生をふりかえった自伝だった。

著者は、模試全国トップ、筑波大付属高校、東京大学法学部首席卒業、在学中に司法試験合格など輝かしい成績をほこる。塾に行かずに独習でたどりついたという。ま、こういう成功者の本はなんの参考にもならないけど、と読んでいたら、参考にならないどころか、ひどく悲しくなった。

著者は、じぶんは天才ではなく努力してきたのだ、勉強は楽しくないのだという。勉強をつづける理由は、周囲から「勉強ができる子」と呼ばれたイメージを壊したくない、一人だけ不合格になりたくない、などなど。試験に落ちてしまう恐怖、友達と遊んで時間を無駄にしたとふりかえる罪悪感を味わいたくないために、がむしゃらに勉強する。

不安にかられて勉強するという経験は確かに誰でもあるだろう。でも、それだけで一冊の本にしてしまう厚顔さにあきれてしまった。恐怖と罪悪感という、ネガティブな力によって駆動される勉強って悲しくないだろうか。そんなに必死に勉強して、何になりたいのだろう。

著者の生き方は、学歴や資格を得ることだけが目的になっているようだ。仕事をはじめて、他者との共同作業の大変さを嘆き、答えのない課題の取り組みに戸惑うさまを吐露している。そうした社会の「現実」に気がつくのがあまりにおそくないだろうか。

高偏差値のエリートって実はこういう人が多いのだとしたら、この先が不安になった。あたえられた課題で高得点を稼ぐ能力がきわめて高かったとしても、社会をよくするための活動にそれほど関心がなさそうだから。

どうして私はこの本をよんでこんなに悲しくなったのだろう。エリートへのひがみじゃない。ものごとをはかる物差しのバリエーションが少ないことへの憤りなのかもしれない。

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