GIFの質感?

先日、九州大学で開催された映像学会で、水野勝仁さん(@mmmmm_mmmmm)による「GIFの質感」という奇妙なタイトルの研究発表がありました。GIF(ジフ)は、パソコン通信やインターネットで使用されている画像形式の名称です。発表資料がこちらにあります。


「GIFは硬くて、JPEGはぬめっとしている」という意見があるそうです。わたしも、その意見にはおおむね同感です。JPEGにはざらっとしたところもありますが。

さて、GIFやJPEGの質感に関しては多くの人が言及していて、GIFやJPEGを主題にした展覧会やWebサイトも存在するそうです。GIFの質感にこだわる人には、デザイナーなどの「作り手」が多いようにおもいます。すくなくとも初期のWebデザイナーは、画像ファイルの容量を少しでも削るため減色などで日々GIFと格闘していて、その「質感」を熟知していたはずです。

このように、あるメディアの形式・技術に特有の質感に思いをはせるのは、GIFだけに限ったことではありません。ちょっとあげてみるだけでも、いろいろあります。音楽には、「真空管の質感」、「LPレコードの質感」、「MP3の質感」など。写真には「銀塩写真の質感」、「ポラロイドの質感」など。映像には、「8ミリの質感」、「DVの質感」など。そういえば、MPEG動画特有の圧縮ノイズに着目した動画作品をみたことがあります。

ここでいう「質感」とは、技術や圧縮アルゴリズムの制約によって不可避に発生するノイズや不自然な効果などを指しています。メディアが伝達する内容を重視する立場からみれば、「質感」は内容の品質低下を招くものであり、本来は歓迎されないもののはずです。ところが、黒子であり「透明」な存在である技術にあえて着目して愛好する現象も往々にして生まれています。

なぜこのような倒錯が起きるのでしょうか。その理由はいくつかありそうですが、ひとつは、その技術が主流だった時代への郷愁です。この「質感」は、「往時を思い出させてくれる懐かしいレトロな質感」というわけです。それから、もうひとつには、技術と人びととの適度な距離感にあるとおもいます。ある技術がわかりやすく、身体的に触れたりできるものだと、人びとはその技術特有の「質感」を語りたくなるのではないでしょうか。逆にわたしたちが直観的に理解できない技術では、「質感」の話題が盛り上がらない気がします。

GIFは、画像フォーマットのなかでも扱いやすく理解しやすいフォーマットです。GIFには一枚に使える色の数に制限がありますが、目で見て確認できる数なのでかえって把握しやすいともいえます。GIFのアニメ機能には、複雑な概念は不要で、パラパラマンガと同様につくることができます。高価なプロ用のソフトウェアを使わなくてもGIFファイルは作れます。なぜならGIFを扱うフリーソフトウェアはたくさんあるからです(特許問題で一時期下火になったことがありましたが)。GIF関連ソフトウェアの多さは、開発者にとってGIFが「ハックしやすいフォーマット」だったことをあらわしています。こうしたことからGIFは、誰にでもちょっとした工作のような手軽さと面白さを提供しています。このGIFの身近さが、その「質感」に関する言説を数多く生みだした要因のひとつでしょう。

「質感」の話題は、フォーマット(形式)とコンテント(内容)を分離したものととらえず、双方が影響を与えあっていることを再確認させてくれます。デジタルの世界では、さまざまなオープンフォーマットが生まれていますが、GIFのように市民権を得た(?)「質感」を感じさせるものはどれほどあるでしょうか。ここで書いたことはただの雑感で、冒頭に掲げた研究発表の意図とはかけはなれていますが、いろいろな発想が浮かんでくる楽しい発表でした。

■参考図書
メディアの「窓」(透明性)と「鏡」(反映性)を考える。

メディアは透明になるべきか
ジェイ・デイヴィッド ボルター ダイアン・グロマラ
NTT出版
売り上げランキング: 763443

東日本大震災

2011年3月11日の午後、東北地方で大地震が発生しました。
被災者のみなさんのご無事を祈ります。

昨日、職場から帰宅する時には、これほど広い範囲で大きな被害になっているとは思いませんでした。こちら広島県福山市では地震を感じませんでした。「また東北で地震があったようですね」と世間話をしていた程度です。揺れを体験していないので、あきれるほど気楽な心持ちでした。

まだ被害の全容はわかっていません。心配なのは、テレビで、いつもの地震よりも不安をあおるような内容や、いらだつ口調が多いことです。マスメディアは、いたずらに不安をかきたてるのではなく、被災者の役に立つ情報や、支援者ができることを落ち着いた口調で伝えてほしい。だれもセンセーショナルな空撮映像をくりかえし見たいとは思っていません。

非常時には携帯電話がまったく通じませんでした。一方で、Twitter ユーザの安否はいちはやくわかってほっとしました。Twitter は現在とても便利な情報源になっていますが、出所不明の怪しいツイートもみかけます。よくわからないことを不用意につぶやいたりリツイート(RT)しないよう気をつけたいものです。

デジタル伝言ゲームにチャレンジ!

2010年11月21日、広島市で、ケータイを使ったこどもむけワークショップを行いました。福山大学で同僚の飯田豊さん、福岡のNPO法人子ども文化コミュニティの高宮由美子さんと一緒です。主催は、広島のNPO法人子どもコミュニティネットひろしまです。

メディア表現によるコミュニケーションスキルアップ講座
デジタル伝言ゲームにチャレンジ!!

日時:11月21日(日) 10:00~13:00
会場:広島市女性教育センター(WE プラザ 大会議室)
対象:小学生20名 (保護者、大人の見学可)

飯田豊(福山大学人間文化学部メディア情報文化学科 専任講師)
杉本達應(福山大学人間文化学部メディア情報文化学科 専任講師)
高宮由美子(NPO法人子ども文化コミュニティ 代表理事)

http://www.kodomo-net.jp/20101120.html

ワークショップには、なんと札幌や大阪からも参加者が集まりました! また、前日のフォーラムで講演されていた携帯電話研究家の木暮祐一さんも見学に来られていました。参加者のみなさん、どうもありがとうございました。

伝言ゲームっておもしろい!

今回のワークショップでは、いろんな伝言ゲームで、情報を伝えることに挑戦しました。

  1. ことばによる伝言ゲーム
  2. イラストによる伝言ゲーム
  3. ケータイによる伝言ゲーム

ところで、伝言ゲーム、やったことありますか? 知ってはいても、実際にやる機会は意外とすくないかもしれません。でも、やってみると、楽しいし、おもしろいことがよくわかりました。伝言している途中で、ちょっとした音が変化したり、情報が欠落したりしていきます。人間の記憶力や心理、情報のあいまいさ、メディアの役割など、いろんなことを考えさせてくれます。

ことばによる伝言ゲームのお題は、「いつ、どこで、だれが、なにを、どうした」といった形式がよいようです。さらに、「○○だって」「○○らしいよ」と伝聞の形にすると、噂やニュースっぽくなりますね。難易度を上げるには、細かな修飾語をつけるといいです。たとえば、「財布を落とした」ではなく、「5000円とカードが入っていた黒い革製の財布を落とした」とか。

お絵描きによる伝言ゲームでは、言葉にたよらず、前の人が描いたイラストを短時間見たあとに、描き直して情報を伝えていきました。お題は「おいしいたいやき」だったのですが、ひとつのグループで、「おいしいおさかな」に変わってしまいました。イラストの途中経過を観察すると、湯気の線が波に、お皿の線が水槽になっています。

最後のケータイを使ったゲームは、グループごとに街に出ていきます。時間の制約もあり、バケツリレー方式で伝えるのではなく、隣のグループだけにお題を伝える連想ゲームです。お題をケータイで伝えるために、ヒントの写真を撮って、隣のグループにメールを送ります。ヒントの写真を受け取ったグループは、その答えを紙に書いた写真をメールで回答します。送られた答えが正解か不正解か判定して答えるのも写真メールです。お題が届くところから、すべてが、ケータイ写真メールのやりとりだけで進んでいくゲームです。

お題は、漢字一文字ということだけがわかっています。実際に出されたお題は、「海」「風」「波」「星」。どのお題も、昼間の街中で、そのものを写真に撮ることができないものばかりです。そのため、お題に似たようなものや、お題を連想できるイメージを探さなければいけません。

このゲームでは、限られた時間で、かなり難しいお題のヒントを探すだけでなく、届いたヒントから答えを探ることもやらなければいけません。それぞれのグループの様子を観察していましたが、みんなとても苦労していました。ところがなんと、すべてのグループが正解にたどりつきました。こどもたちの伝える力と想像する力はすごいですね。

ケータイって使いにくい!

さて、ワークショップの前日の深夜に、ホテル近くのファミレスで、打合せと準備をしました。ゲームで、写真メールを送りやすくするために、ケータイ1台ごとに、「ヒントをおくる」と「こたえをおくる」専用のメールアドレスを事前に登録しておきます。このアドレスは、前後のグループのケータイへ届くとともに、同時に会場のPCにも転送されるように設定しておきます。

この登録設定作業に、思いのほか手間どりました。わたしは、ケータイ打ちがもともと不慣れだったこともありますが、ふだん iPhone に慣れていると、従来の携帯電話の操作がとても面倒です。写真を撮ってメールを送るだけのシンプルな操作をするにも、何度もボタンを押さなくてはいけないんですよね。この時、飯田さんが、深夜に同機種のケータイを何台も並べていじっている姿は怪しいよねとつぶやいていましたが、確かに怪しい面々に映ったことでしょう(笑)。とはいえ、この前日の仕込みのおかげで、当日は問題なく動作していました。

ところで、今回使ったケータイは、主催の子どもコミュニティネットひろしまに、事前に準備していただいたものです。短期間のイベントなどに貸し出している携帯電話レンタルサービスを利用して有料で借りたとのこと。今回のワークショップは、ケータイを活用して、こどもとケータイの関係を考えなおすことができます。こどもとケータイの関係が社会的に注目されているなかで、こうした地道な活動こそ、通信事業者が積極的にサポートしてほしいものです。主催者の方は、通信事業者にも協力を依頼したそうですが、あっさり断られたようです。そもそも地方には事業者のCSRの窓口もありません。

ちなみに今回のケータイの機種がいつごろのものか気になっていたところ、木暮さんに数年前の古い機種だと教えてもらいました。さすがコレクターだけあって、一目でわかることにびっくり。そして、数年前で古くなってしまうケータイの製品サイクルの短さにも驚きます。現在進行形で次々と新しくなる機器に対して、わたしたちは、その面白さにのめりこんだり、危険や不安を感じたりしています。ときには、こうしたイベントを通じて、新しい技術に没入したり反発するだけでなく、じっくりと考えてみるのもよいですね。

次回もあります

子どもコミュニティネットひろしまでは、メディア表現のワークショップを連続して行っています。次回は、2011年1月に、朝倉民枝さんピッケの絵本づくりなどが行われます。詳しい内容は、後日子どもコミュニティネットひろしまのWebサイトに掲載されるとのこと。広島のこどもたちに、ぜひ参加してほしいです。

関連リンク

常識外れの人びと

広島市現代美術館の特別展「HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン」に、会期最後の週末にすべりこみました。実は広島県に引っ越してきて、はじめての広島訪問です。広島に来たのは、なんと中学生の修学旅行以来です。

広島市現代美術館は、比治山下電停から坂道をのぼった比治山公園の中にありました。以前から、この美術館のシンボルマークが何をあらわしているのか分からなかったのですが、電停を降りた瞬間に理解できました! これには比治山のなかにある美術館へたどる坂道が描かれていたのですね。

会場は写真撮影可能でした。わたしは写真を撮らなかったので残念ながらここは写真なしですが、展示室の様子を知りたい方は、ぜひ検索してみてください。写真つきのブログがたくさんみつかりますよ。

都築響一は、「珍日本紀行」や「賃貸宇宙」、「ラブホテル」など、これまで正面きって取り上げられることのなかったスポットや「常識外れの人びと」を追いかけている写真家、編集者です。会場入口の壁一面に、次のメッセージが大きくはりだされていました。

僕はジャーナリストだ。アーティストじゃない。

ジャーナリストの仕事とは、最前線にいつづけることだ。そして戦争の最前線が大統領執務室ではなく泥にまみれた大地にあるように、アートの最前線は美術館や美術大学ではなく、天才とクズと、真実とハッタリがからみあうストリートにある。

ほんとうに新しいなにかに出会ったとき、人はすぐさまそれを美しいとか、優れているとか評価できはしない。最高なのか最低なのか判断できないけれど、こころの内側を逆撫でされたような、いても立ってもいられない気持ちにさせられる、なにか。評論家が司令部で戦況を読み解く人間だとしたら、ジャーナリストは泥まみれになりながら、そんな「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」に突っ込んでいく一兵卒なのだろう。戦場で兵士が命を落とすように、そこでは勘違いしたジャーナリストが仕事生命を危険にさらす。でも解釈を許さない生のリアリティは、最前線にしかありえない。そして日本の最前線=ストリートはつねに発情しているのだし、発情する日本のストリートは「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」だらけだ。

この展覧会の主役は彼ら、名もないストリートの作り手たちだ。文化的なメディアからはいっさい黙殺されつづけてきた、路傍の天才たちだ。自分たちはアートを作ってるなんて、まったく思ってない彼らのクリエイティヴィティの純度が、いまや美術館を飾るアーティストの「作品」よりもはるかに、僕らの眼とこころに突き刺さってくるのは、どういうことなのだろう。アートじゃないはずのものが、はるかにアーティスティックに見えてしまうのは、なぜなんだろう。

僕の写真、僕の本はそんな彼らを記録し、後の世に伝える道具に過ぎない。これからお目にかける写真がどう撮られたかではなく、なにが写っているかを見ていただけたら幸いである。

これは発情する最前線からの緊急報なのだから。

展覧会解説ブログ・サイトより
http://hiroshimaheaven.blogspot.com/

会場は、これまでの都築響一の仕事のシリーズが展示してあります。その意味では都築響一の著作からの抜粋でしかないともいえますが、美術館の空間をいかした展示には雑誌や本のページとは違った味わいがありました。また、本展覧会独自の内容もありました。独自展示のひとつは、広島の人はみんな知っている(らしい!?)地元の有名ホームレース「広島太郎」を取材したものです。そのほかにも、見世物小屋絵看板の実物展示や、カラオケスナックのブース、秘宝館を再現したものもありました。秘宝館だけは、18歳未満お断り。展示室にヌード写真があふれているのに、このゾーンだけ年齢制限を設けているのは、秘宝館への敬意のあらわれでしょうか。秘宝館のなかでは、女性の観客が写真を撮りまくっていたのが印象的でした。

それにしても広島市現代美術館は、特別展「一人快芸術」といい、芸術という枠をこえた企画で異彩を放っている美術館です。

ところで、「常識外れ」といえば、常識を疑う思考を持とうと謳っている本『20歳のときに知っておきたかったこと』が売れています。この本は、読者に常識を疑うことを奨励し米国流の起業家精神を鼓舞する点において、「シリコンバレー流」であり、人生訓をちりばめながら成功の秘訣を説く点においては、巷に溢れている自己啓発本の類と大差ありません。すなわち「シリコンバレー流の自己啓発本」ですから、生活している社会も文化も違う私たちはある程度の距離を持って批判的に読んだほうがいいでしょう。

この本が謳う「常識外れ」は、都築響一が見出した「常識外れ」とは全く異なります。本書の「常識外れ」は、あくまでもビジネス的な成功、つまり金儲けと社会的名声の獲得を目的としているからです。たとえば、こんなエピソードが得々と披露されています。著者は会議のため滞在した北京で、万里の長城で日の出を見るという現地旅行を会議参加者と約束したものの実現が難しく途方に暮れます。ところが偶然出会った中国人学生に大学入試の推薦状を書いてあげることで、引き換えに現地旅行の手配をしてもらったというのです(172-3ページ)。このように、自分の名声のためには、手段を選ばない「なんでもあり」の職権濫用さえ許されてしまうことには、思わずつっこみたくなります。

著者は、多くの有名起業家たちのエピソードから、人生訓を引き出していますが、残念ながらどれも彼らの人生を表面的になぞっているだけで、心に響いてはきませんでした。なぜ今こんな本が日本で売れているのでしょうか。みんな、本書でたびたび引用されているスピーチの主であるスティーブ・ジョブズのような米国流成功者になりたいのかもしれませんね。確かにジョブズは、「常識外れ」でした。本書では触れられていませんが、彼は電話のただがけ装置「ブルーボックス」を売り歩いていたほどクレイジーでした。人間にはいろいろな面があります。しかし本書では、人生の失敗経験さえも成功への道の一つとして語られます。米国の成功者は、どんなエピソードさえも、最終的に自身の成功物語に組み込んでしまうしたたかさを身につけなければならないようです。

一方、都築響一は、商業ライターのトップランナーとはいえません。彼は、雑誌が描きつづける虚構にうんざりしたことを告白しています。雑誌が伝えるような、北欧家具に憧れ、高級外資系ホテルに泊まるようなライフスタイルを、誰もが一様にえらんでいるわけではありません。日常に溢れる生活レベルの文化をすっかり無視して、消費を生み出そうとする虚構だけを繰りだしているメディアの片棒を、彼は担ぎたくなかったのでしょう。それよりも、日本人の日常生活に充満している文化を、カラオケスナックやラブホテルの姿などを通じて伝えていくことに転向したのです。

私たち読者や観客は、都築響一が伝える「常識外れの人びと」を、ひとつの「見世物」として楽しんでいます。常人では達成しえない技への驚きやとまどい、おそれを楽しむという態度は、制度確立以前のアートへ回帰しているようでもあります。「常識外れの人びと」の多くは、有名起業家と違って、生産的ではないし社会的な成功とは無縁です。しかし都築響一は、彼らを奇人変人として軽蔑したり、ネタとして消費しようとするのではなく、私たちと生活文化を共有しているひとつながりの人間として、やさしさに満ちた眼差しを注いでいます。都築響一の視線にうながされて、私たちも「常識外れの人びと」に不思議な共感や親しみを感じてしまいます。ところで、ここで紹介した本を書いたスタンフォードの先生は、都築響一が伝える「常識外れの人びと」を見て、賞賛するでしょうか。おそらく、一瞥するなり、こう叫ぶのではないでしょうか。「クレイジーだ!(成功してないじゃん!)」。

私なら、20歳の人にこうおすすめします。「常識外れ」は大賛成。でも雑誌や自己啓発本に描かれる「常識外れ」は、ある「型」にはまっているおそれがあります。だからどうか、その内容を鵜呑みにしないでほしい。……ちょと天の邪鬼すぎるかしら。

HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン
都築響一
青幻舎
売り上げランキング: 4712

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
ティナ・シーリグ
阪急コミュニケーションズ
売り上げランキング: 10

※『20歳のときに知っておきたかったこと』は、ブログエントリーを一つ書くことが条件のキャンペーンの当選品として、阪急コミュニケーションズから提供されたものです。

アルジャジーラがクリエイティブ・コモンズ

個人がドキュメンタリーをつくるとき、既存の映像素材を使いたいことがあります。
しかし、簡単で安価な素材入手の手段は限られています。
放送局のように、過去のストックから自由に引き出してくることはできません。
個人の、とくに非商業的な、ドキュメンタリー映像制作で、自身以外の映像を使うのは大きな壁があります。

さて、2009年1月13日から、中東カタールのニュース放送局のアルジャジーラが、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスで、いくつかの動画を公開しはじめています。

これらの動画は、クリエイティブ・コモンズのなかでも、もっとも「ゆるい」帰属ライセンスです。つまり、アルジャジーラのクレジット表示さえしておけば、わたしたちは動画を共有したり、字幕をつけたり、リミックスしたり、再利用することができます。

現在、西側メディアが取材できていない、紛争地帯・パレスチナ自治区ガザの模様が数十本あります。アルジャジーラは、海外他局からの映像使用料を大きな収益としているらしいので、すべての動画がクリエイティブ・コモンズにはならないでしょう。しかし、自局だけがつくりだせるコンテンツを効果的にひろげる、興味深い試みだと思います。

このような流れが他の事業者にもひろがれば、個人の映像制作者にとっても福音になりますね。

アルジャジーラがクリエイティブ・コモンズ情報庫を公開 (Joi Ito’s Web)

Al Jazeera Creative Commons Repository
http://cc.aljazeera.net/

“アルジャジーラ 報道の戦争すべてを敵に回したテレビ局の果てしなき闘い” (ヒュー・マイルズ, 河野 純治)