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映画『プリズン・サークル』(坂上香監督・2019・日本)

『プリズン・サークル』の試写をみた。ささやかながらクラウドファンディングで支援していたので、試写を見る機会に恵まれた。

はじめて日本の刑務所にカメラを入れた長編ドキュメンタリー。舞台は島根にある官民協働の新しいタイプの刑務所で、「TC」(回復共同体)という更生プログラムを日本で唯一導入している。TCでは受刑者同士が車座になって対話し、犯した罪やこれまでの記憶や感情に向きあう。最初TCで多くの受刑者に囲まれた支援員をみたとき、この空間にちょっとした恐怖を感じた。しかし、その気持ちはすぐに消えた。ここはふだんの刑務所と違い、番号ではなく名前で呼びあって発言できる、ひとりひとりが尊重される穏やな場だったからだ。

多くの人にとって刑務所は遠い存在だ。なのに、この映画はとても他人事ではすませられない。日本で生活している人で、いじめや暴力、負の感情などを、自分や身のまわりで経験したことのない人がどれほどいるだろうか。受刑者の生い立ちを聞いているうちに、ふたをしていた自分の子どものときの記憶がよみがえる。世の中には、なんらかの被害や負の感情をなんとか乗り越えてきた人がたくさんいるはずだ。だれもが人生の途中でいつ道を踏み外してもおかしくない。犯罪を犯していない人は、さいわいにして、いまのところ犯罪者にならなかったにすぎない。その違いはなぜうまれたのか。塀の向こうだから遠い存在だとおもっていた受刑者たちが、いつしか自分の身体と重なりはじめる。

映画の画面と音には緩急があった。刑務所内のきびしい制約のもとで撮影されているため、基本的に単調な画がつづくが、退屈ではない。受刑者の対話と沈黙に意識を集中させているからだ。受刑者の顔は法務省の方針でぼかされてはいるが、声は肉声のままで口元が映っていることもあり、あるていど表情がつたわってくる。

刑務所内の変化の乏しいシーンのところどころに、アニメーション監督・若見ありさによる印象的な砂絵のアニメーションが挿入される。その絵は、受刑者の「子どものときの記憶」の語りとともに登場人物の感情がゆたかに描かれ、スピーディに場面が転換していく。ただしその中身は、虐待、ネグレクト、暴力、いじめなどつらい被害の記憶ばかりだ。加害者の過去は、被害者だったのだ。どの受刑者にも共通しているのが、幼いときの被害経験から加害へといたる「暴力の連鎖」があることだ。

作中の音は、ほとんど受刑者と出所者の声だ。ドキュメンタリーとして、取材者や専門家の解説、受刑者の関係者、刑務所にいる刑務官や支援員などのインタビューが入っていてもおかしくないが、いっさいない。専門家の見解などなくとも、ひとりひとりの受刑者の声をきくだけで、日々の犯罪報道から、死刑を含む司法制度、厳罰化を求める世論など、いろいろなトピックが頭をよぎる。

取材許可に6年、撮影に2年。完成までにものすごい困難があったはずだ。監督は自分自身にも暴力の連鎖があったことをインタビューで告白している。自分の過去にしっかり向き合える強さをもっていて、あきらめずに取材しつづけた監督の粘り強さには脱帽する。

テレビの犯罪報道ばかり見ているよりも、まずは映画館でこの傑作を見なければいけないだろう。ひとりでも多くの人に見てほしいし、見た人の感想をききたい。(1361字)

2020年1月25日、渋谷シアター・イメージフォーラム他、全国順次公開。
https://prison-circle.com/

坂上香,2012,『ライファーズ 罪に向きあう』みすず書房

新井克弥,2016,『ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR』青弓社.

ディズニーランドには一度も行ったことがない。そう言うとたいてい驚かれる。もしかすると日本人のなかでは少数派かもしれない。なのでディズニーランドについては何も語れないのだが、この本は面白かった。まずはディズニーランドやディズニーにまつわる豆知識が得られた。重い論文ではなく、アカデミックなエッセンスがちりばめられた軽妙なエッセイのようだった。

著者は開園当初の東京ディズニーランドでアルバイト経験があり、ウォルト主義と現在のゲストの振る舞いの変化のあいだに愛憎の念を感じているようだ。著者によれば、現在のディズニーランドは、ウォルトが夢見ていたファミリーのための永遠に完成しないテーマパークではなくなったという。「Dオタ」なるコアなファンが、ときにテーマパークのルールを逸脱する過剰な楽しみ方をしていて、オリエンタルランドもその客層を狙って変化をつづけているという。わたしにはテーマパークの客層の変化がどれほど劇的なものなのか分からない。しかしこれを厳密な数字で示すのはむずかしく、印象で語っているのはやむをえないだろう。

東京ディズニーランドが変化した大きな原因は、日本特有の消費文化にあると本書は指摘する。もちろんその通りだが、インターネットによる来場者同士の情報流通が決定的な要因ではないだろうか。テーマパークとは、演出された巨大な舞台を楽しみ、ストーリーを読みとく場所だった。しかし今日では、多くのゲストが細かい知識と趣味の世界で細分化された情報を得ながら、それぞれの楽しみ方を突き進められる場所になっている。この現象を気持ち悪いと断罪もできるが、だれもが「通」として楽しめるようになったと肯定的にとらえることもできるだろう。

結局のところ、対象への愛情や知識の量を競い合うようなゲームになっているいわゆるオタクやサブカルチャーの領域と同じ世界になったのだろう。ディズニーランドは、もともとファミリー向けの無毒な(ディズニファイされた)テーマパークだけに、このようなオタク的ふるまいとは本来折り合いがつかない場所である。しかし日本では経営的に生き残るためにも、文化的に受け入れやすくするためにも、うまくローカライズして成功をつづけているということか。

ディズニーランドに少しだけ興味がでた。一方で一生行かなくていいともおもう。いや、本国アナハイムのディズニーにはちょっとだけ行ってみたくなった。

(1004文字・30min)

ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR (青弓社ライブラリー)

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荒俣宏『決戦下のユートピア』

きょうは、即位の礼とかで祝日だった。

荒俣宏『決戦下のユートピア』を読了。ゼミ生に紹介してもらった本。もとは同僚の先生のおすすめ本だったそうだ。

第二次世界大戦中の日本を大きな歴史としてではなく、庶民の体験の目線から描く。国家の自粛強制、ファッション、貯蓄奨励に有事のための保険、戦力確保のための教育、敵国を貶めるプロパガンダ、オカルトや新宗教信仰の流行など幅広いトピックがならぶ。発明奨励のところには、こうの史代『この世界の片隅に』に登場した「楠公飯」が登場していた(p.270)。

戦時下においても、人々がたくましく生きていることに心強さを感じる。一方で、これでは敗戦もやむをえないだろうと感じる珍妙なエピソードも多い。今となっては、大真面目なようで面白おかしい話がたくさん出てくる。戦争といえば悲惨な出来事で、庶民は苦しい生活を余儀なくされた。静かに振りかえるべき重たいトーンの時代なのに、つい笑ってしまう。

台風19号の被災はいまもつづく。皇室イベントを中継するNHKの画面は、災害復興情報が逆L字で囲まれている。この国はいま、おめでたいのか、かなしいのか。『決戦下のユートピア』が追いかけた戦時中の建前と本音、歴史と実情のあいだにあった「あべこべ」が、今の日本にも発見できそうである。これが非常事態への予兆でなければよいのだけれど。
(567字・22分)

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赤川学,2004,『子どもが減って何が悪いか!』筑摩書房.

本書は、近代日本のセクシュアリティを研究テーマとする歴史社会学者による、社会に蔓延する定説に異を唱えた告発本である。その定説とは、「男女共同参画の推進が少子化対策につながる」という主張だ。このような本を書くのは相当の勇気と覚悟が必要だ。なぜなら、この手の反論は、敵を多くつくるからだ。それでもなお、恣意的なデータの利用に警鐘を鳴らし、学問的誠実さを貫いた著者の態度に敬意を表したい。

この本は終始研究者らしく冷静に論じられているので、読者によっては、とっつきにくさを感じるかもしれないが、最後まで読んでほしい。主張への賛否は分かれても、少子化社会の制度設計がどうあるべきかについて思いをめぐらせることができる。

本書の序盤では、数々の統計データを分析することで定説を覆していく。統計の専門用語が並び、素人にはやや難解だがスリリングである。15年の前の本だが状況はあまり変わっていないように感じる。

筆者は、男女共同参画の推進そのものを否定しているわけではない。ただ、男女共同参画を進めることが少子化対策につながるという主張が科学的とはいえないと批判しているのだ。しかしこの主張は誤解を受けやすいようで、何度も注釈をつけながら論を進めている。筆者は、本書の主張によって、多くの論者から批判を受けたそうだ。具体的には、「男女共同参画を実現するという理念のためには手段を選ばない」人々の反発や、政治的な正しさを求める人々からの心理的反感を招いたのだ。

現代社会における男女共同参画は、まぎれもないポリティカル・コレクトなトピックである。本書の主張は、その潮流に逆行する政治的に誤った訴えに一見映ってしまう。そのため、「正しい」政策に抗うとは何事か、という脊髄反射的な反応を得てしまうのだろう。

第6章「少子化はなぜ止まらないか」では、少子化の原因が考察されている。ここで紹介されている「相対所得仮説」や「人口容量」には説得力があった。相対所得仮説とは、結婚することで生活水準が上がると見込めば結婚するという仮説である。人口容量という考えは、一つの国家がどれだけ人口を養えるかを示した公式だ。じつは両者とも、人々が「認知」する生活水準と深く結びついている。これは統計データにあらわれる絶対的な所得の分布から実証するのは難しく、個人個人の成長とともに得られた実感から推測するしかない。人々は必ずしも計量的なデータに基づいた論理的な判断をくだすとは限らない。人間の認知や感情まで考慮した制度設計をどのようにすればよいのか。重い課題だ。

著者の主張はシンプルで、少子化は避けられないものだから所与のものとして制度設計すべき。そして、なによりも各人の「選択の自由」を尊重するということだ。その自由を保証するには、「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても何のサンクション(懲罰や報奨)も受けない制度設計」(p.204)が必要だと論じる。論理的な結論ではあるが、現実の日本の政治を見ると、個人の「選択の自由」をひろげるような政策を進めているとはいえず暗澹とした気分になる。本書の議論は、公共の福祉や年金システム、世代間格差などへと拡散する。少子化というワン・イシューを論じるだけでも、結局は社会全体の福祉をどうしたいのかに着地する。

それでは、どのような社会を実現すればよいか。スウェーデン方式の年金制度などの提案はあるものの、全体の展望は明確ではない。たとえば子育て支援は、子供の人権の観点から基礎づけ、子供本人に支給するべきという意見(p.181)には、なるほどと思う。しかし子供本人に支給するというのは、結局親権者の管理となるので、現行の児童手当と変わるところがない。子育てや介護は私的な領域であり、特定のライフスタイルのみを重点的に支援する根拠が薄弱なのはわかる。しかし最大限の自由を保証するために、偏りなく分配する方法はなかなか難しい。

冒頭に書いたように本書は研究者の矜持をもって書かれていて、世間をにぎわせる話題先行型の本にあるような脅しや煽り、人間味あふれるエピソードなどは皆無だ。そのため、合理的思考を好む読者には読みやすいだろう。一方で、ときに「高齢者/子供という存在自体が尊い」という分かりやすい価値観に真っ向から反するような冷徹な書きかたには、心理的抵抗を抱く読者もいるかもしれない。とはいえ本来であれば、このような冷静な議論をベースに社会の制度を設計すべきである。しかし人は、「認知」「感情」の生き物だ。どうしても「心をつき動かされる」論にたよってしまう。その意味で、制度設計の困難さと少子化の原因は根が同じであることに気がついた。

(1931文字)

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

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北京の暑い一日

団体旅行で中国に来ている。

北京上空の景色は、機内中央の席にいて、映画(A Star Is Born)に没入していたので、見えなかった。地上から見た空は、やや黄色がかった白色で霞んでいる。空港でやや息苦しさとのどの痛みを感じたので、あわててマスクを着けのど飴を口にする。乾いた空気でなんとなく粉っぽい。ただ、おそれていたほどの大気汚染はなさそうだ。ときおり青空ものぞいている。ガイドさんによると、北京で走るバイクはすべて電動、ストーブの練炭は禁止、近郊の工場も閉鎖され、大気環境はずいぶん改善しているそうだ。

北京中心部の散策時間に、同行している方々と天安門広場に行ってみる。広場は監視カメラだらけ。警官も多数立っている。天安門広場に行くときは、名札を外すようにと、ガイドさんが忠告する。順路が指定されていて、集団で一気に広場に入ることができないようになっている。広場に入るには、セキュリティチェックがあり、パスポートか身分証のチェックと荷物の検査を通す。門から紫禁城方面に入ると一方通行で戻ることができない。徹底的に環境が管理されている。毛沢東の肖像画とともに記念写真を撮るだけで踵をかえした。

きょうは、今年はじめての最高気温37度か38度の日だそうで、とても暑い。湿度は低く、風が吹いていたので、何とかしのげた。つきさすような日差しで熱中症になりそうだったので、スターバックスに逃げ込む。現金をまったく持ってきていないけれど、WeChat Payで支払うことができた。事前に、羽田空港のポケットチェンジでチャージしておいた分だ。米ドル、台湾ドル、日本円からそれぞれチャージすることができた。為替レートも悪くない。

SIMロックフリースマホに事前に挿しておいた香港のSIMカードは、入国と同時に無事アクティベートしたので、GoogleやFacebookなど普段どおりに使うことができた。ホテルのWiFiにつなぐと金盾に阻まれ、GoogleやFacebookにはつながらない。VyprVPNを経由してみたら、ほどなくWiFiが切れた。この方法ではうまくつながらないのかもしれない。

追記:翌朝早く、香港サーバ経由にしたら変えたらつながった。いろいろ試すとよいのかもしれない。