金子郁容,1992,『ボランティア―もうひとつの情報社会』岩波書店.

前半は、自発的に動く人の事例をあげながら、ボランティアという見返りを期待しない行為から、思いがけず平等な関係性がうまれることを解説する。

とりあげる事例は、在宅ケアシステム、障害者の「自立生活」、v切符制度、PDSコミュニティなど幅広い。このうちいくつかの用語は、いまでは聞くことがなくなった。

後半は、やや学問的な議論に入る。ハンガリー生まれの経済学者カール・ポランニーによる経済活動の批判的検討。イヴァン・イリイチによる「ヴァナキュラー」、「ジェンダー」というキーワード。マルセル・モースの『贈与論』。駆け足で解説されるのでつかみづらいが、現在の経済システム以外のオルタナティブがあるのではという問題提起だと解釈した。

最後に「もうひとつの情報社会」というキーワードが提示される。情報という概念が従来の経済システムの価値観を見直すと主張している。しかしこの議論での「情報」は、希少性も所有権もない無透明なデジタルデータのことを指しているようで、しっくりこなかった。

本書は、発行された1990年代前半の時代背景を想像しながら読む必要がある。インターネット前夜、パソコン通信のユーザが増え、好調な日本経済を背景に大手企業がボランティアを推奨しはじめた。情報という概念に社会変革の希望を託すことができた時代だったのだ。

情緒的な書きぶりの当時の希望的観測が、いまどうなったのか。しずかに答えあわせするとちょっぴり苦い味がした。

(670字・30min)

新井克弥,2016,『ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR』青弓社.

ディズニーランドには一度も行ったことがない。そう言うとたいてい驚かれる。もしかすると日本人のなかでは少数派かもしれない。なのでディズニーランドについては何も語れないのだが、この本は面白かった。まずはディズニーランドやディズニーにまつわる豆知識が得られた。重い論文ではなく、アカデミックなエッセンスがちりばめられた軽妙なエッセイのようだった。

著者は開園当初の東京ディズニーランドでアルバイト経験があり、ウォルト主義と現在のゲストの振る舞いの変化のあいだに愛憎の念を感じているようだ。著者によれば、現在のディズニーランドは、ウォルトが夢見ていたファミリーのための永遠に完成しないテーマパークではなくなったという。「Dオタ」なるコアなファンが、ときにテーマパークのルールを逸脱する過剰な楽しみ方をしていて、オリエンタルランドもその客層を狙って変化をつづけているという。わたしにはテーマパークの客層の変化がどれほど劇的なものなのか分からない。しかしこれを厳密な数字で示すのはむずかしく、印象で語っているのはやむをえないだろう。

東京ディズニーランドが変化した大きな原因は、日本特有の消費文化にあると本書は指摘する。もちろんその通りだが、インターネットによる来場者同士の情報流通が決定的な要因ではないだろうか。テーマパークとは、演出された巨大な舞台を楽しみ、ストーリーを読みとく場所だった。しかし今日では、多くのゲストが細かい知識と趣味の世界で細分化された情報を得ながら、それぞれの楽しみ方を突き進められる場所になっている。この現象を気持ち悪いと断罪もできるが、だれもが「通」として楽しめるようになったと肯定的にとらえることもできるだろう。

結局のところ、対象への愛情や知識の量を競い合うようなゲームになっているいわゆるオタクやサブカルチャーの領域と同じ世界になったのだろう。ディズニーランドは、もともとファミリー向けの無毒な(ディズニファイされた)テーマパークだけに、このようなオタク的ふるまいとは本来折り合いがつかない場所である。しかし日本では経営的に生き残るためにも、文化的に受け入れやすくするためにも、うまくローカライズして成功をつづけているということか。

ディズニーランドに少しだけ興味がでた。一方で一生行かなくていいともおもう。いや、本国アナハイムのディズニーにはちょっとだけ行ってみたくなった。

(1004文字・30min)

ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR (青弓社ライブラリー)

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荒俣宏『決戦下のユートピア』

きょうは、即位の礼とかで祝日だった。

荒俣宏『決戦下のユートピア』を読了。ゼミ生に紹介してもらった本。もとは同僚の先生のおすすめ本だったそうだ。

第二次世界大戦中の日本を大きな歴史としてではなく、庶民の体験の目線から描く。国家の自粛強制、ファッション、貯蓄奨励に有事のための保険、戦力確保のための教育、敵国を貶めるプロパガンダ、オカルトや新宗教信仰の流行など幅広いトピックがならぶ。発明奨励のところには、こうの史代『この世界の片隅に』に登場した「楠公飯」が登場していた(p.270)。

戦時下においても、人々がたくましく生きていることに心強さを感じる。一方で、これでは敗戦もやむをえないだろうと感じる珍妙なエピソードも多い。今となっては、大真面目なようで面白おかしい話がたくさん出てくる。戦争といえば悲惨な出来事で、庶民は苦しい生活を余儀なくされた。静かに振りかえるべき重たいトーンの時代なのに、つい笑ってしまう。

台風19号の被災はいまもつづく。皇室イベントを中継するNHKの画面は、災害復興情報が逆L字で囲まれている。この国はいま、おめでたいのか、かなしいのか。『決戦下のユートピア』が追いかけた戦時中の建前と本音、歴史と実情のあいだにあった「あべこべ」が、今の日本にも発見できそうである。これが非常事態への予兆でなければよいのだけれど。
(567字・22分)

決戦下のユートピア (文春文庫)

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赤川学,2004,『子どもが減って何が悪いか!』筑摩書房.

本書は、近代日本のセクシュアリティを研究テーマとする歴史社会学者による、社会に蔓延する定説に異を唱えた告発本である。その定説とは、「男女共同参画の推進が少子化対策につながる」という主張だ。このような本を書くのは相当の勇気と覚悟が必要だ。なぜなら、この手の反論は、敵を多くつくるからだ。それでもなお、恣意的なデータの利用に警鐘を鳴らし、学問的誠実さを貫いた著者の態度に敬意を表したい。

この本は終始研究者らしく冷静に論じられているので、読者によっては、とっつきにくさを感じるかもしれないが、最後まで読んでほしい。主張への賛否は分かれても、少子化社会の制度設計がどうあるべきかについて思いをめぐらせることができる。

本書の序盤では、数々の統計データを分析することで定説を覆していく。統計の専門用語が並び、素人にはやや難解だがスリリングである。15年の前の本だが状況はあまり変わっていないように感じる。

筆者は、男女共同参画の推進そのものを否定しているわけではない。ただ、男女共同参画を進めることが少子化対策につながるという主張が科学的とはいえないと批判しているのだ。しかしこの主張は誤解を受けやすいようで、何度も注釈をつけながら論を進めている。筆者は、本書の主張によって、多くの論者から批判を受けたそうだ。具体的には、「男女共同参画を実現するという理念のためには手段を選ばない」人々の反発や、政治的な正しさを求める人々からの心理的反感を招いたのだ。

現代社会における男女共同参画は、まぎれもないポリティカル・コレクトなトピックである。本書の主張は、その潮流に逆行する政治的に誤った訴えに一見映ってしまう。そのため、「正しい」政策に抗うとは何事か、という脊髄反射的な反応を得てしまうのだろう。

第6章「少子化はなぜ止まらないか」では、少子化の原因が考察されている。ここで紹介されている「相対所得仮説」や「人口容量」には説得力があった。相対所得仮説とは、結婚することで生活水準が上がると見込めば結婚するという仮説である。人口容量という考えは、一つの国家がどれだけ人口を養えるかを示した公式だ。じつは両者とも、人々が「認知」する生活水準と深く結びついている。これは統計データにあらわれる絶対的な所得の分布から実証するのは難しく、個人個人の成長とともに得られた実感から推測するしかない。人々は必ずしも計量的なデータに基づいた論理的な判断をくだすとは限らない。人間の認知や感情まで考慮した制度設計をどのようにすればよいのか。重い課題だ。

著者の主張はシンプルで、少子化は避けられないものだから所与のものとして制度設計すべき。そして、なによりも各人の「選択の自由」を尊重するということだ。その自由を保証するには、「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても何のサンクション(懲罰や報奨)も受けない制度設計」(p.204)が必要だと論じる。論理的な結論ではあるが、現実の日本の政治を見ると、個人の「選択の自由」をひろげるような政策を進めているとはいえず暗澹とした気分になる。本書の議論は、公共の福祉や年金システム、世代間格差などへと拡散する。少子化というワン・イシューを論じるだけでも、結局は社会全体の福祉をどうしたいのかに着地する。

それでは、どのような社会を実現すればよいか。スウェーデン方式の年金制度などの提案はあるものの、全体の展望は明確ではない。たとえば子育て支援は、子供の人権の観点から基礎づけ、子供本人に支給するべきという意見(p.181)には、なるほどと思う。しかし子供本人に支給するというのは、結局親権者の管理となるので、現行の児童手当と変わるところがない。子育てや介護は私的な領域であり、特定のライフスタイルのみを重点的に支援する根拠が薄弱なのはわかる。しかし最大限の自由を保証するために、偏りなく分配する方法はなかなか難しい。

冒頭に書いたように本書は研究者の矜持をもって書かれていて、世間をにぎわせる話題先行型の本にあるような脅しや煽り、人間味あふれるエピソードなどは皆無だ。そのため、合理的思考を好む読者には読みやすいだろう。一方で、ときに「高齢者/子供という存在自体が尊い」という分かりやすい価値観に真っ向から反するような冷徹な書きかたには、心理的抵抗を抱く読者もいるかもしれない。とはいえ本来であれば、このような冷静な議論をベースに社会の制度を設計すべきである。しかし人は、「認知」「感情」の生き物だ。どうしても「心をつき動かされる」論にたよってしまう。その意味で、制度設計の困難さと少子化の原因は根が同じであることに気がついた。

(1931文字)

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

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阿部共実,2014,『ちーちゃんはちょっと足りない』秋田書店.

なにかの評で買って積んでいたのを、まったく前情報なしで読んだ。中学生たちの日常を描いたほのぼのした漫画かとおもいきや、人間の心の闇を描く恐ろしい作品だった。

まず、タイトルにだまされる。ちょっと足りない=知能の発達がおくれている、ちーちゃんの言動をあたたかく見守る物語だととらえてしまう。実際には、ちーちゃんをとりまく同級生たちの群像劇だ。なかでも、ちーちゃんの友人、ナツが真の主人公だった。

読み進めてわかるのは、何か「足りない」のは、ちーちゃんではなく、ナツのほうだということ。いつも周りと比べて、欠乏感と羨ましさばかりが募らせている。ちーちゃんとつきあっているのは、友情なのか、「足りない」同士という連帯感なのか。

ちょっとした事件をきっかけに、ちーちゃんの周りの人間関係が大きく動く。しかしナツだけは変わらず、「足りない」ままだ。それでもナツは、ちーちゃんにすがる。そこに友情はあるだろうか。こども時代に周りとのささいな差異になやんだことのある者なら、だれでも思いあたるところがあるだろう。心の奥にしまっていた苦い思い出を浮かび上がらせる残酷な物語だった。

ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックスエクストラもっと!)

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