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若林恵,2019,『NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』黒鳥社.

SNSで絶賛されていたのをみて読んでみたけれど、ノレなかった。その分野のアドバイザーやコンサルになりたい人の講演(ポジショントーク)を聞かされたような気分だ。

本書が謳うのは、行政府をデジタルテクノロジーで変革することだ。デジタルトランスフォーメーションの意義はわかる。わかるのだけれど、やけにポップな語り口で事例をくりだすばかりで、パッションを感じなかった。なぜだろうか。著者がオルタナティブとDIYというキーワードの指向性が好きなのはわかるが、肝心の「公共性」へのまなざしを感じなかったからだ。たとえば、「インクルージョン」という聞こえのよいキーワードをつかって説明しながら、現実に困っている人や弱い人の描写やそうした人たちへの共感がほとんど感じられなかった。

本書の大部分は「仮想雑談」という対談形式をとっている。ところが聞き手の発言の大部分が、「ふむ」、「なるほど」、「おもしろい」といった合いの手に終始していて対話になっていない。聞き手の発言はほとんど1行のみ。前後の空行含めて3行のスペースができあがってしまい、じつにもったいない。ページ稼ぎかと邪推してしまう。

紹介される事例に、サイトで読んだ、ニュースで見た、という伝聞情報が多くて途中でうんざりしてきて閉じてしまった。これは本のかたちをしているけれど、首尾一貫した流れはなく、断片的な情報をかき集めたものだ。読者は、大きな箇条書きの集合を見せられている。マクルーハンのように断片的な書物があってもよい。だけど、本書の内容は後世に残る箴言集にはほど遠い。わたしが本に期待する水準の情報ではなかった。

もちろん一つひとつのトピックは十分に興味深いし、深く知りたくなることもあった。小さい政府/大きい政府の議論は、いまなら持続化給付金委託事業の問題や、リモートワーク時代の行政手続きを想起させる。公共的事業の民営化・市場化とソーシャルセクターのバランスを考える導入のテキストにはなるかもしれない。

最後に著者が、これはあくまでムックだ、雑誌だと弁解しているのは、すこし後ろめたさがあるのではないだろうか。たしかに一人の編集長による雑誌として読めば悪くはなかったのかもしれない。それにしては装丁をこりすぎたのか高価すぎる。
(945文字・30min)

田中辰雄・浜屋敏,2019,『ネットは社会を分断しない』KADOKAWA.

ネットによって人びとの政治傾向は分極化している。本書はそうした通説を事実ではないと指摘する。オンラインで約10万人を対象にした大規模調査の分析によると、ネットは社会は分断していないのだと。

本書の構成はつぎのとおりだ。はじめに、ネット草創期にいだかれた社会をよくするという期待と現在の絶望感を描く。オンライン調査の分析から、ネットが社会を分断するというネット原因説を解説する。しかし第3章からは、その因果関係が反対であることを明らかにし、表題の結論を導きだす。データから論理的に結論をひきだす過程はあざやかで読みやすい。本書は政治的には一貫して中立な立場を守っていて、保守−リベラルの分極度を中心で折り返して重ねる分析手法に驚かされた。

本書の結論はつぎのとおりだ。「ソーシャルメディアのユーザが接する相手の4割は自分と異なる意見の人であり、マスメディアを通じるよりむしろ多様な意見に接している。そのためソーシャルメディアを利用し始めた人の政治傾向は分極化せず、むしろ穏健化する。実際、ネットに親しんだ若年層ほど穏健化しており、分断傾向はない。」(p.198)

本書の分析によると、ネットでは選択関接触よりも、むしろクロス接触(異なる意見への接触)がそれなりに大きい。新聞や雑誌などにくらべても選択関接触は低い。この原因には次の2点があげられる。第一にネットの情報取得のコストが安いこと、第二にソーシャルメディアの設計が炎上事件のように極端な意見が誇張されて見えてしまうことである。

著者のひとり、田中らによる『ネット炎上の研究』と同様に、本書が人びとの政治傾向やネットでの行動の関連を明らかにしていてとても興味深い。政治思想については直接ふれず、特定の政治傾向への好悪を持たないところが本書のよいところだ。しかし、「分断しない」、「穏健化する」という結論を強調するあまり見落としている点もあるのでないかと心配になる。

人びとはクロス接触により穏健化するとして、つぎのような展開が考えられると述べている。「産経新聞とそこまで言って委員会NPだけを見ていた人がネットを始めてリベラルな人の声を直接聞き、彼らの多くが売国や反日ではなく、ただ人類普遍の理想を追求しようとする人々であることを理解する。朝日新聞と報道ステーションが情報源だった人がツイッターとフェイスブックを始めて、保守側の意見に直に接し、彼らの多くが国家主義者でも既得権益擁護者でもなく、ただ歴史的経験を重視し先人の知恵を尊ぶ人々であることを知る」(p.192)

また、若年層が分極化しないことはつぎのことから当然の結果だと述べている。「若年層は最初からネットから情報を得ており、対立する意見の両方に生で接してきた。それゆえそれらを比較考量することができるために、片方の極端に走ることなく、穏健な意見を持つことになったと考えられる。」(同上)

こうした考察は、今回のアンケート調査の結果のみから導き出せるとはおもえず唐突な印象を受けた。すくなくともわたしには、保守とリベラルの相互理解がネットのクロス接触を通じて生まれているとは思えない。若年層の政治傾向が穏健である理由が、双方の意見に触れているからとも思えない。身近に感じていることは、高齢者がネットの意見に感化されて強固に保守化する事例だったり、若年層というかネットのヘビーユーザはネット上の意見には誇張や虚偽が多いことを体得していて情報を鵜呑みにしないリテラシーをもっていることなどだ。

本書の弱みは、政治思想を単純化しすぎていることだ。保守-リベラルという単純な対立軸で分析するのが妥当なのか。フォロワーの多い「有名論客」ばかりを対象にすることが妥当なのか。発行部数が凋落する新聞や雑誌とネットを比較することが妥当なのかなど、分析の設問にも工夫の余地があるのかもしれない。

とはいえ本書の功績は大きく、このような大規模調査を継続することができれば、さらに多くのことが明らかになることは間違いないだろう。

現在のソーシャルメディアでは極端な意見が横行している。そのことによって穏健な人々がこうむる心理的なストレスはけっして無視できないだろう。こうしたオンラインコミュニケーションのあらわれの設計にこそ大きな責任がありそうな気がした。

(1825字・40min)

金子郁容,1992,『ボランティア―もうひとつの情報社会』岩波書店.

前半は、自発的に動く人の事例をあげながら、ボランティアという見返りを期待しない行為から、思いがけず平等な関係性がうまれることを解説する。

とりあげる事例は、在宅ケアシステム、障害者の「自立生活」、v切符制度、PDSコミュニティなど幅広い。このうちいくつかの用語は、いまでは聞くことがなくなった。

後半は、やや学問的な議論に入る。ハンガリー生まれの経済学者カール・ポランニーによる経済活動の批判的検討。イヴァン・イリイチによる「ヴァナキュラー」、「ジェンダー」というキーワード。マルセル・モースの『贈与論』。駆け足で解説されるのでつかみづらいが、現在の経済システム以外のオルタナティブがあるのではという問題提起だと解釈した。

最後に「もうひとつの情報社会」というキーワードが提示される。情報という概念が従来の経済システムの価値観を見直すと主張している。しかしこの議論での「情報」は、希少性も所有権もない無透明なデジタルデータのことを指しているようで、しっくりこなかった。

本書は、発行された1990年代前半の時代背景を想像しながら読む必要がある。インターネット前夜、パソコン通信のユーザが増え、好調な日本経済を背景に大手企業がボランティアを推奨しはじめた。情報という概念に社会変革の希望を託すことができた時代だったのだ。

情緒的な書きぶりの当時の希望的観測が、いまどうなったのか。しずかに答えあわせするとちょっぴり苦い味がした。

(670字・30min)

劇作家の悲鳴

新型コロナウイルス感染症の影響で劇場が閉まり公演が中止になった。この事態を受けた劇作家たちの発言が物議をかもしている。非難したい人びとが失言に乗じて火をつけるので、炎上しているように見える。

小さな劇団は零細産業であり悲鳴をあげるのは当然だ。しかし他業種と比較をしながら窮状を訴えたことで反発をくらった。「小演劇はスポーツイベントとは規模が違う」、「製造業のように増産できない」。比較された側も大きな被害を受けているので、このような言い回しは妥当ではなかった。

ただ彼ら自身がふだんから社会的に不遇な立場に置かれているとかんがえているからこそ、そうした言動にむすびついてしまったのではないか(人文系研究者の怨嗟の声に似たものを感じる)。ただ、彼らの言い方に不適当だった部分はあったからといって、悲鳴をあげること自体を封じようとしたり、人格を批判しようとする動きは許されない。

ある劇作家が過去に政策に介入したことを批判した記事をよんだ。みずからの業界に利益を誘導するロビー活動はどの業界でもあるはずだ。「お肉券」の構図とそう変わりはない。もし舞台芸術だけに手厚い支援が実現していたとしても、劇作家ひとりの問題ではなく、バランスのとれた政策に落とし込めなかった政治家の責任だ。

ところで、ロビー活動の面のバランスはどうなのだろう。芸術家のロビー活動が演劇に偏っているかどうかはよく知らない。政治にアクセスする芸術関係者が幅広い分野にまたがったほうがよいのは確かだ。そういえば文化庁長官は工芸家だが……。

(646字・30分)

顔の見えない受刑者に感情移入できるか 映画『プリズン・サークル』砂絵アニメーションの力

この記事はpotariにも掲載しています。potariでは写真が掲載されています。

2020年1月、ドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』の公開がはじまった。わたしはこの映画のクラウドファンディングの支援者であり、監督の知人でもある。つまりこの記事は、まったくの第三者による映画のレビューではなく、応援記事であることをおことわりしておく。

『プリズン・サークル』は、島根県の刑務所で唯一おこなわれている受刑者同士が対話する更生プログラムを描いたドキュメンタリー映画。犯罪者をどのように処遇すべきなのか、犯罪へいたる背景は何なのか、犯罪者は更生できるのか、見るものに多くのことが問いかけられる。同時に、自分の経験を振りかえり、ひいてはわたしたちの社会のあり方をも考えさせられる。

この記事では、映画の要素のひとつであるアニメーションを紹介したい。以下の内容は、公開初週に開催された、坂上香(監督)と若見ありさ(アニメーション監督)のアフタートークの内容をもとにしている。

『プリズン・サークル』は、ドキュメンタリーでありながら、はしばしにアニメーションが挿入されている。坂上は、アニメーションをとりいれた経緯を語った。法務省の判断で、登場する受刑者の顔が一切出せず、ぼかし処理せざるをえなかった(ぼかし処理だけで数か月かかったという)。もっとも伝えたい人間の表情を消されてしまい、ドキュメンタリーとして成立するのか危ぶまれた。その問題をのりこえるため、彼らが語る子ども時代のエピソードを、なんとかビジュアルで見せる方法を考えていたとのこと。そんななか、アニメーション作家の若見と出会って意気投合し、はじめて共同制作することになった。

坂上が編集したシーンにあわせて、若見が砂絵によるアニメーションを制作した。砂の絵は青みがかった色調とセピア調とがある。柔らかくやさしい絵のトーンと、暴力やいじめ、虐待、ネグレクトなどの体験を語る声にはギャップが大きく、最初はたじろいでしまう。

アニメーションの制作期間は、およそ2か月強という短期集中である。毎日9時間かけ、ガラス板にのせた砂粒をすこしずつ動かし1コマずつ撮影していく。もし制作中に、地震が起きたりして予期せず砂が動いてしまったら、シーンの最初からつくり直しだ。若見は、制作にあたって、虐待に関する書籍を読みまくり、受刑者が過ごしたであろう間取りのアパートの部屋を取材したという。柔らかなタッチからは、即興的につくっていたように感じられるが、じつは綿密なリサーチを経て作られていたのだ。

結果として、この映画のアニメーションはリアリティを補う添え物どころか、重要な要素になっている。映画の舞台は基本的に刑務所のなかだ。無機質な建造物を背景に、蛍光灯のあかり、プラスチック製の椅子など。どちらかといえば、のっぺりとした画がつづく。みな丸坊主の男性受刑者たちの顔や表情は隠され、彼らの感情をつかみきれない。そのなかではっとするのが、ときおり挿入される刑務所の各所と島根県浜田市の四季の風景。そして、アニメーションだ。

砂絵のアニメーションは、映像としての情報量がけっして豊富ではない。しかしその特性がかえって観客の想像をふくらませている。この映画のきびしく制限された映像に、アニメーションがイマジネーションの翼を与えているのだ。一粒の砂はだれかの涙のようだ。まだらに散らばる砂のかたまりは、恐怖に震える人の鳥肌のようでもある。あるときは、一粒一粒の砂が一人ひとりの人間に見えた。環にそってならぶ砂粒は、まるで受刑者たちがつくる人の輪、サークルのようだ。それに砂粒が動いているということは、それを動かすアニメーターがいるということでもある。砂絵を見ながら、アニメーターの存在や手触り、息づかいまで伝わってきた。

『プリズン・サークル』は上質なドキュメンタリーであり、すぐれたアニメーション作品でもある。あのアニメーションなくして、顔の見えない受刑者に感情移入できるだろうか。その答えは、ぜひ自分の目でたしかめてほしい。

最後に上映情報をお知らせ。九州では、KBCシネマ(福岡市)、シアターシエマ(佐賀市)、Denkikan(熊本市)で上映予定。劇場公開時でないとなかなか見ることができない映画になりそうなので、ぜひ劇場で。

『プリズン・サークル』公式サイト
https://prison-circle.com/